松村介石と道会の来歴
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1859年(安政6年)に播磨明石藩士の家に生まれる。父は武士で漢学者であったため、幼少の頃より『大学』『中庸』はじめ、四書五経に親しむ。 1870年11歳のとき上京、安井息軒の門に入塾。 1874年に15歳で神戸の宣教師に学ぶ。 1876年17歳で横浜に行き、改革派教会宣教師ジェームス・バラの塾に学ぶうちキリスト教に入信する。のち、外国人宣教師との折り合いが悪くなり、バラとも袂を分かつことになる。 1882年12月に日本組合基督教会高梁教会の牧師に就任。その後、『福音新報』、『基督教新聞』の編集に従事する。その活躍から、内村鑑三、植村正久、田村直臣と共に、明治キリスト教界四村の一人と呼ばれ、宗教界に重きをなした。 1885年、大阪一致教会の牧師より王陽明の「啾啾吟」を教えられ甚く感銘し、それ以来王陽明の思想にも傾倒する。 1907年(明治40年)、新たな教会を開くことを決意、大手町の商工中学の2階を借りて毎日曜日に説教、これを「一心会」と名付けた。古今東西の宗教や歴史を研究の結果「道は一なり、すべての宗教道徳の根本義は、信神、修徳、愛隣、永生の四綱領に帰する」と確信、今後の時代に合った万人の宗教をめざし、10月には「一心会」を改めキリスト教、神道、儒教、老荘、仏教を包含した「日本教会」を創立、キリスト教の一新派として布教を開始した。 1908年に機関誌『道』を創刊。 1911年、教会内に「不朽青年会」を結成、毎月、青年のための弁論会を開催。 1912年(明治45年)、「日本教会」を「道会」と改称、大倉孫兵衛、森村市左衛門ら財界人の援助も受けて宣教活動を進めた。 1915年、松濤にいた鍋島直映侯爵の斡旋を受けて東京市外中渋谷字神山(現・神山町)に道会本部事務所を新築、移転。同敷地内に拝天堂の建設にもとりかかる。青年知識人が多数会員になった。 1916年12月、拝天堂竣工。同地に青年、学生のための寄宿舎「神山寮」を新築。 1936年、肺炎を起こしたのを機に会長を辞し顧問となる。 1939年(昭和14年)11月29日、動脈硬化により80歳で死去。多磨霊園に眠る。
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