松平信正 (丹波亀山藩主)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 松平信正 (丹波亀山藩主)の意味・解説 

松平信正 (丹波亀山藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/02 14:26 UTC 版)

 
松平信正
松平信正
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永5年4月29日1852年6月16日
死没 明治42年(1909年10月28日
戒名 恭徳院殿弘誉昌雲龍峰大居士
墓所 京都府亀岡市北古世町の光忠寺
官位 従五位下図書頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
丹波亀山藩
氏族 形原松平家
父母 父:松平信豪、母:不詳
養父:松平信義
兄弟 松平信進正室、貞鏡院信敏信正牧野康哉正室ら
正室:西尾忠受の娘・
継室:宗義和の娘・植子
信興、土御門晴行
テンプレートを表示

松平 信正(まつだいら のぶまさ)は、江戸時代後期の大名明治時代日本政治家華族。爵位は子爵形原松平家18代当主で丹波国亀山藩の第8代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、貴族院子爵議員などを歴任。

略歴

嘉永5年(1852年)4月29日、第6代藩主・松平信豪の七男として誕生した。はじめ家督は兄の信敏が継ぐ予定だったが、信敏が慶応元年(1865年)に死去したため、信正が第7代藩主・松平信義の養子となって、慶応2年(1866年)に家督を継いだ。官位従五位下図書頭

幕末期には佐幕派だったが王政復古後、旧幕府勢力が朝敵となると見限り、東征軍山陰道鎮撫総督西園寺公望に帰順して以降、官軍に参加した[1][2]明治2年(1869年)の版籍奉還で亀山藩知事となり、伊勢亀山藩との混同を避けるために亀山を亀岡と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県知藩事を免官される。

明治12年(1879年)に大蔵省御用掛、明治14年(1881年)に四等検査官、明治22年(1889年)に帝室制度取調掛、明治23年(1890年)に元老院書記官となった。また、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵し[3]、明治23年(1890年)7月10日から明治30年(1897年)7月9日まで貴族院子爵議員を務めている[4]

明治42年(1909年)10月28日に死去した。享年58。

系譜

  • 父:松平信豪(1813年 - 1865年)
  • 母:不詳
  • 養父:松平信義(1824/22年 - 1866年)
  • 正室:育 - 西尾忠受
  • 継室:植子 - 宗義和
  • 生母不明の子女
    • 長男:松平信興
    • 次男:土御門晴行

脚注

  1. ^ "松平 信正". 新訂 政治家人名事典 明治~昭和. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  2. ^ "松平信正". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』56頁。

参考文献

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
亀岡松平家初代
1884年 - 1909年
次代
松平信興



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平信正 (丹波亀山藩主)」の関連用語

松平信正 (丹波亀山藩主)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平信正 (丹波亀山藩主)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平信正 (丹波亀山藩主) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS