東鷹栖村誕生まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 17:47 UTC 版)
広大な領域を持つ鷹栖村は、人口の増加につれ分村されていった。まず1897年(明治30年)7月1日、愛別川より東の地域を分村、永山村の一部と合わせ愛別村とした(現在の愛別町)。この地域は1889年(明治22年)に北見道路の駅逓がおかれ和人の定住が始まったが、本格的な移住・開墾が始まったのは1894年(明治27年)のことである。分村時には276戸、1,060人が居住していた。 1902年(明治35年)4月1日に旭川町が一級町村制を施行したが、この際に発せられた内務省令により、「鷹栖村ノ内字近文(東ハ六号線南ハ石狩川北ハ近文高台山麓ヲ界シ西オサラツペ川ニ至ル部分)」は旭川町に編入されることとなった。これはおおよそ現在の旭川市春光から近文町に至る地域である。この近文地区編入の意図は省令等には示されていないが、二号道路から六号道路にかけての陸軍省第七師団用地を一級町村である旭川町に属させた方が行政上の利便が大きかったことが最大の理由といわれる。また、二号道路以西の地域についても旭川町に隣接し商工業の発展が著しく、農業主体の鷹栖村の自治とするのになじまないことも理由であったという。この割譲により鷹栖村の総戸数1,680のうち384戸、1,750人が旭川町へ移籍した。 1897年より建設が始まった天塩線(現在の宗谷本線)は村東部の比布・蘭留を通っており、次第にこれらの地域の重要性が増していったため独立の必要が生じた。1906年(明治39年)4月1日、突哨山をはじめとして南北に連なる山地を境にし、これ以東を比布村として分村(現在の比布町)することとなった。当時の比布村は611戸、2,917人を有した。しかし財産や土地の分割について鷹栖と比布の間で折り合いがつかず、財産は上川支庁長の勧告により4分の1を比布村に譲渡することで間もなく解決したが、突哨山地における境界線を確定させるには1958年(昭和33年)まで時を待たねばならなかった。 比布村の分村と同時に鷹栖村は二級町村制を実施し、1909年(明治42年)4月1日には一級町村制を施行した。1921年(大正10年)には、鷹栖村庁舎が近文一線六号(現在の旭川市末広1条1丁目)に新築移転した。 大正に入り、行政による開発の中心がオサラッペ地区(現在の鷹栖町の一帯)に移ると、これに不満を持つ近文原野の住民が分村運動を始め、ついには1924年(大正13年)6月4日、村名を東鷹栖村と改称すると同時に鷹栖村(一級村)、江丹別村(二級村)を分村するに至った。新たな東鷹栖村と鷹栖村の境界、および鷹栖村と江丹別村との境界は、現在の旭川市と鷹栖町の境界と同じものである。 第二次世界大戦が終わると、旭川市の旧第七師団官舎が民間に払い下げられ住宅地となった。これに隣接する東鷹栖村六号周辺もその延長として宅地化が進んだため、旭川市ではこの地域の併合を検討し始めた。六号地区の住民の間にも旭川市への編入を望む運動が起こったため、市と村との間で交渉を行い、1951年(昭和26年)4月1日に七号道路以西を旭川市に割譲することとなった。この地域の世帯数は485戸、人口は2,866人であった。
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