有志による断髪式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 10:18 UTC 版)
師匠(もしくは角界関係者)と喧嘩別れをしたり、不祥事を起こした(もしくは巻き込まれた)りしたことを理由に引退した場合、師匠に断髪式の開催及び出席を拒まれ、師匠以外の有志に断髪式を開催して貰い、止め鋏を入れて貰うケースもある。以下に過去の実例を示す。 1954年9月場所14日目に引退し、年寄・錦戸を襲名した第40代横綱・東富士は、錦戸の年寄株を双見山又五郎が所有していたことを知らずに襲名してしまったために立浪から苦情がつくなど、一門間での争いに巻き込まれたことを理由に、1954年12月に廃業した。人柄を惜しんだ双葉山(当時の年寄時津風)が角界に残れるよう便宜を図るが、一門同士の隔たりが大きかった時代もあって、双葉山をもってしても叶わず引退相撲も行われなかった。1955年7月7日、プロレスに転向して間もない時期にサンケイホールで行われ、止め鋏は同様に力士を廃業してプロレスラーとなっていた力道山光浩が入れたとされる。 1975年に勃発した二所ノ関部屋の後継者問題がこじれ、押尾川部屋への移籍を認められなかったことを不服として、1976年9月場所後に引退してプロレスに転向した元幕内・天龍は、それから間もなく入門した全日本プロレスの興行で断髪式を行った。止め鋏は全日本プロレスの社長だったジャイアント馬場が入れた。奇しくもその会場は、旧両国国技館の日大講堂であった。この断髪式はプロレスファンに今一つ理解が得られなかったようであり、2階席の後方から野次が飛んだという。 1987年11月場所後の12月31日、当時の師匠安念山治らと衝突、部屋を飛び出したまま廃業した第60代横綱・双羽黒の断髪式は「北尾光司君を励ます会」という名目で、1988年の3月上旬に東京都内のホテルで行われた。3月場所の直前ということもあり、師匠を初め大相撲関係者は誰一人出席せず、止め鋏は双羽黒の実父が入れた。 1997年9月場所後、同じく師匠隆の里俊英と衝突し、失踪したまま引退届を提出した元幕内・力櫻の場合、断髪式は「力櫻断髪の会」という名目で、親しい関係者有志がそれぞれ集まり、止め鋏は小錦八十吉(当時の年寄佐ノ山)が入れた。 2006年9月場所中に対戦相手(勢翔太)に暴行を加え当時の師匠琴ノ若晴將に引退を勧告された元十両・琴冠佑の断髪式は同年10月7日に中央区の銀座東武ホテルで行われたが、止め鋏は引退後の勤務先の社長が入れた。角界関係者は寺尾常史(年寄錣山)及び他1名が出席したとされる。 2008年8月に大麻取締法違反の疑いで逮捕(起訴猶予)され解雇となった元幕内・若ノ鵬の断髪式は2009年2月1日に行われたが、こちらにも師匠二代目若乃花幹士を初め大相撲関係者は誰一人も出席せず、止め鋏を入れた人物も不明とされる。 2021年7月場所中に大麻を使用したとして解雇となった(後に書類送検・不起訴)元幕内・貴源治の断髪式は同年10月31日に行われたが、止め鋏は貴闘力忠茂が入れた。これは同年9月10日にアップロードされた貴闘力のYoutubeチャンネルに貴源治が出演した際、貴源治の断髪式を貴闘力が手配する意向を示し、それが実現する形となった。当日の様子は二子山部屋の元幕下・悟道力浩司のTwitterアカウントに公開されたが、元大関・小錦八十吉(タレント・KONISHIKI)も出席したとされる。 その他、角界とのトラブルや不祥事が無かった(公に確認されなかった)にもかかわらず、師匠以外の人物が止め鋏も入れたケースもある。以下にその実例及び止め鋏を入れた人物を示す。 元幕内・大日ノ出(止め鋏田中英壽、当時大日ノ出の母校日本大学の相撲部で監督を務めていた。) 元十両・魁道(止め鋏実父) 元十両・徳真鵬(止め鋏宮田淳、徳真鵬の母校朝日大学理事長)※稀勢の里寛(年寄荒磯)・大道健二(年寄阿武松)など角界関係者も出席 尚、不祥事を起こして引退した場合でも、力士時代の功績を考慮し、師匠に通常の断髪式を開催して貰い、止め鋏も入れて貰えるケースもある。以下にその実例及び引退理由(不祥事の内容)を示す。 第39代横綱・前田山(職権濫用) 第68代横綱・朝青龍(一般知人への暴行) 第70代横綱・日馬富士(貴ノ岩義司への暴行) 元幕内・貴ノ岩(付け人への暴行)
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