有岡城跡とは? わかりやすく解説

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有岡城跡

名称: 有岡城跡
ふりがな ありおかじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 伊丹市宮ノ前伊丹
管理団体
指定年月日 1979.12.28(昭和54.12.28)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 昭和63.05.19
解説文: S54-6-041有岡城跡.txt: 摂津[[伊丹]いたみ]の地は、鎌倉末期頃から伊丹氏居住した所である。伊丹氏は、南北朝の内乱の際、足利氏につき軍功をたて、現在の国鉄福知山線伊丹駅周辺に居を構えていた。その居館は、たびたび、細川氏赤松氏三好氏柳本氏一向一揆衆の攻める所となり、少なくとも永正16年享禄2年には落城している。伊丹氏の城は、天正2年荒木村重によって落され以後摂津大名荒木村重本城として大改修された。それにつれ、城名有岡城改められた。天正7年9月重の没落後は、池田之助城主となり、城名伊丹城復したが、天正11年池田氏摂津より美濃転封を命ぜられて以後は、伊丹の地は豊臣秀吉直轄地となり、城も廃されたらしい
 この城は、旧伊丹郷町中央部東端段丘が東に張り出した地形利用して造られているが、その最終期荒木氏時代の城の輪郭は、寛文9年伊丹郷町古図、伊丹元禄大火之図及び延宝5年昆陽古図等によっておおまかに知ることができる。寛文9年の古図によれば、濠で囲まれ城域は、東西二条の空濠、南北一条の空濠によって5区画に分けられており、北側本丸東側中央天守東側南に二ノ丸金間が造られ西側2つ分けられている。おそらく、北側から東にかけての一帯本丸で、その南には二ノ丸置かれていた構えであった思われる
 この城跡は、明治26年軽便鉄道とこれに続く阪鶴鉄道現国福知山線)の開通によってこわれ、城跡東側は、鉄道施設道路敷等のため大きく切り崩された。したがってこの城跡は、現在、西側一部残っているにすぎない
 残され城跡も、国鉄福知山線複線電化工事施行により、伊丹市伊丹駅前の都市整備を行うこととなったため、昭和50年から4年にわたり、伊丹市教育委員会の手発掘調査が行われた。その結果、この城の遺構6期分けることができること荒木氏時代の城は、伊丹氏の城を南及び西に拡張したのであることが判明したほか、各所で濠・石垣土塁建物・池・柵等の遺構検出され中世城郭から近世城郭への移行輪郭一部明らかにされ、大きな成果おさめた
 さらに今回発掘調査過程で、近世伊丹郷町構えは、荒木氏時代伊丹段丘高低差利用して形成され総延長約2キロに及ぶ城の総構え踏襲したものらしく、総構え造るに際しては、各所に砦を構えて守り固めたことが判明した。砦跡の一部は、北方の砦(猪名野神社境内一帯)、南のひよどり塚の砦等として、後世改変を経ながらも遺存している。
 昭和54年指定にあたっては、この城跡総構え形成した最終期荒木氏時代着目し指定名称を有岡城跡とすることとしたが、その指定範囲は、城郭跡では国鉄伊丹駅整備事業から除外され部分北方の砦跡及び総構えのうち、北から西側南端に至る段丘画する道路敷・水路敷とする。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  最寄貝塚  月ノ木貝塚  有岡古墳群  有岡城跡  朝夷奈切通  朝日貝塚  朝熊山経塚群


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