最高段位十段に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:13 UTC 版)
海外での指導歴としては前述の南米のほか、北米や欧州に加え、当時柔道の芽が小さかったアジアでも1963年にフィリピン柔道連盟の招聘により1ヵ月の柔道指導を行うなどし、斯道の国際化に尽力して1971年には講道館の外人臨時試験委員を、1979年から1989年までは国際部指導員を務めた。 また大沢の功績として、日本における女子柔道の礎を築いた点も特筆される。海外での柔道ブームと女子柔道の隆盛に押される形で1979年に全日本柔道連盟が女子選手の強化に乗り出すと、大沢がこの任に当たる事となった。醍醐が男子強化を、大沢が女子強化を担当する事となった当時を「正直に言えば、何で女子なんだよって思った」と大沢は振り返っている。1980年に女子の第1回世界選手権大会が開催されると選手団団長して会場のニューヨークに乗り込むが、結果は無差別級を含む8階級のうちメダルは山口香の銀メダル1つのみで、新聞にも「お家芸、形なし」と書き立てられる始末だった。それでも1983年1月より講道館の女子部指導員を、1985年4月から1989年まで全日本柔道連盟の国際試合強化委員会女子部強化担当部長を務めるなどしてコーチの柳沢久と共に永く女子柔道の育成に携わり、1982年の第2回世界選手権大会で銀メダル2個・銅メダル1個を獲得したのを皮切りに、1984年の第3回世界選手権大会では山口香が日本女子柔道初の金メダルを獲得。更に第4回大会で銀メダル2個・銅メダル1個、男女共催となった第5回大会では銀メダル2個・銅メダル3個を獲得して、1988年のソウル五輪では公開競技の位置付けながら佐々木光を金メダルに導いた。 またこの間、1976年のモントリオール五輪柔道競技や1981年の第11回世界選手権大会で審判員の大役を任せられ、全日本柔道連盟では1983年から1992年まで審判委員会委員を務めた。このほか、全日本柔道連盟幹事(1980年4月から1983年まで)、同理事(1983年4月から1989年まで)、同評議員(1990年4月から2012年まで)、同顧問(2012年4月から)、講道館評議員(1992年4月から)、同参与(2008年1月から)を歴任するなど柔道界の運営に携わり、1992年4月に九段位を受けて紅帯を許された。昇段に際し大沢は、「道場で一貫して柔道衣を着続けた事が認められたのではないか」と控え目に述べている。同時に、1981年には自身の名を冠した大沢慶己杯争奪少年大会の第1回大会が有志らによって企画され、新座市で開催されたこの大会からは後に鈴木若葉や鈴木桂治ら多くの名選手たちが輩出された。 柔道界に対する永年の尽力と功績が認められた大沢は2006年1月8日講道館鏡開き式において、同じく柔道の発展に寄与した安部一郎、醍醐敏郎と共に、事実上の最高段位である十段に昇段。3人での同時昇段は史上初めての事であった。1991年に小谷澄之が没して以来15年振りの十段誕生で、120年以上の歴史と177万人を超える有段者(いずれも当時)を抱える講道館でも十段を受けたのは僅か15人、実に12万人に1人という狭き門であった。専門雑誌『近代柔道』のインタビューで大沢は、「格好を付ければ道のために死んでいきたいが、そんなキザな事は言えない」「今までやってきた事を続けていくだけ」と意気込みを語っている。同年3月25日付で早稲田大学スポーツ功労賞を受章。90歳を越えてからも道場に立ち続け、健康の秘訣を問われた大沢は「ワインを毎日2杯飲み続けている事」と答えていた。
※この「最高段位十段に」の解説は、「大沢慶己」の解説の一部です。
「最高段位十段に」を含む「大沢慶己」の記事については、「大沢慶己」の概要を参照ください。
- 最高段位十段にのページへのリンク