書記官長柳田国男との確執
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「徳川家達」の記事における「書記官長柳田国男との確執」の解説
貴族院書記官長は議長の補佐として、また議会事務局トップとして重責を担う役職である。1914年(大正3年)から1919年(大正8年)にかけてその職位にあった柳田国男と家達の間に重大な確執が生じて政治問題化した。貴族院書記官河井弥八の日記によれば少なくとも1918年(大正7年)5月の段階では両者の間に確執が生じていたようで、この時、同書記官宮田光雄の転出問題をめぐって家達が人事権を持つ書記官長の柳田と相談しなかったという。 同年7月、家達は長男の家正が書記官として勤務している北京公使館を訪問し、その後中国視察も行うことを考え、河井にその計画の作成を命じ、河井は関係各所を回って準備を整えたが、家達の妻の泰子が病気を患ったため延期となった。柳田は河井に随行を命じるつもりだったが、家達訪中が延期になったので貴族院事務局官制に則り、河井だけ中国への出張を命じた。しかし家達がそれに承諾を与えなかったため、河井の出張も中止となった。柳田は家達が公務ではなく自己都合で書記官の出張を振り回したと思い「議長ノ態度ヲ快シトセス」と不快感をあらわにしている。 その後両者の関係はさらに悪化していったと見られ、1919年(大正8年)4月16日に家達は首相の原敬に対して柳田の更迭の話を相談している。勅任高等官である貴族院書記官長の実質的な人事権は貴族院議長ではなく内閣にあったためだが、議長との不仲を理由に書記官を更迭するというのは世間からは恣意的な人事に映るので原は慎重だった。この後柳田は議会閉会を利用して九州旅行をしているが、その間の5月10日の衆議院の火災を聞いて大分県より急遽帰京。この時に柳田が旅行ですぐに駆け付けなかったことが家達の心証を悪くしたという説もあるが、河井の日記からはそうしたことは見いだせない。 家達に近しい法制官僚岡野敬次郎が宮内大臣波多野敬直に柳田を宮内省図書頭に異動させることを依頼するようになり(波多野は難色を示している)、家達と柳田の不和の話を聞いた倉富勇三郎が柳田に話を聞いたところ、柳田は家達との不仲や岡野が自分を転任させようと画策していることを認め、自分にも辞職の決意はあるが、しばらくは辞表を出さずに家達を困惑させると告げた。 一方家達は再度の自身の訪中計画の作成を河井に指示し、この際に河井が柳田と面会し「将来ノ進退」を聴取したが、柳田は家達が「偏狭我儘ニシテ自ラ公明ヲ装フモ窃ニ陰険手段を弄ス」点が我慢ならず、近日中にも辞職し「従来ノ情弊ヲ一掃セム為一切ヲ公表」するつもりだと述べた。 家達は河井に自身の訪中の同伴を命じたが、柳田が河井に出張命令を出すことを拒否してきたので、家達は河井を通じて柳田の真意を探るよう指示した。柳田は河井の出張を認めれば書記官が少数になるので業務に支障が出ると答えているが、それは表向きの理由で前述したように柳田は家達が議長付き書記官を私的目的のため働かせることを嫌っていた。家達側はこの柳田の執拗な「嫌がらせ」に困惑しきりであった。 10月10日中国旅行の暇乞いのため首相の原のもとを訪れた家達は改めて「貴族院書記官長には甚だ困却すとて彼の反抗的行為を物語り相当の配慮を望む」と要求した。内閣としても議会運営に支障が出るのは困るため柳田問題に重い腰を上げるしかなくなった。 家達は10月14日に中国へ向けて出国し、15日に倉富が再び柳田と会見したが、家達の中国訪問期間中は辞職することなく居座ると答えている。 12月になると新聞にも柳田が辞職するという報道が出回るようになり、研究会所属の貴族院議員水野直子爵が原首相に対して家達と柳田の問題を質問し、原は柳田の辞職で落着する見込みであると答弁している。そして実際に12月21日に柳田は辞職した。代わりに河井が書記官長となった。河井以降は貴族院書記官長の人事は書記官からの昇格のみとなった。事実上内閣により決定されてきた貴族院書記官長の人事は柳田事件を契機として議長の意向が強く反映されるようになったといわれる。
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