曳山車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 15:52 UTC 版)
現在曳かれている曳山車は全11基。町内単独で山車をもつ町と何町かが合同で持つ町があり俗称名の町が存在し、南側の町が表方(おもてかた)、北側の町が浦方(うらかた)と岩瀬の町を南北に分け、曳き合いの際表方と浦方に分かれ対戦する。 山車は近代になり増減があり、1950年(昭和25年)には白山町(はくさんまち)、1983年(昭和58年)には祇園町(ぎおんまち)、1991年(平成3年)には赤田町(あかだまち)が山車を新造し新たに参加し14基となったが、2011年(平成23年)より、引き手の人材不足などによりそれぞれ1町で曳き出していた土場町(どばまち)と、御蔵町(おくらまち)が合同であらたに財町(たからまち)として山車を出すこととなり、14基だったものが13基となった。2018年(平成30年)には引き手の人材不足などにより、荒木町(あらきまち)と新川町(にいかわちょう)が合同で荒木新川町として山車を出すこととなり12基に、2019年(令和元年)の祭礼を最後に祇園町(ぎおんまち)も引き手の人材不足などにより休止することとなり、11基となった。 なお、1902年(明治35年)の「土場町曳山沿革誌」によると山車は10基であった。 曳山車は高さ約7m、重さ約4〜5t、前後に直径27cmの梶棒が付いた欅でできた頑丈な反台の上に、格子状の木組みの下山が乗り、その上に高欄の付いた雛台が設置されており、その中央に立てた心柱を支えとして上部に扇形のたてもん(行燈)を載せる。たてもんは竹と木できた立体的な扇型の枠に白い布(キャラコ生地)を張り、布には世相や願い事、おめでたい文句などを、判じ絵と呼ばれるいくつかの図柄の組み合わせで表わす。たてもんは回転するようになっており、夜には蛍光灯や投光器で内側より絵を照らす。昔は和紙と蝋燭が使われていた。また雛台には笛・太鼓また三味線等の囃子方や子供達が乗り込む。ガワと山町で呼ばれる車輪は、直径2.9尺(90cm弱)厚さ6寸(約18cm)の4輪の地車(内車)である。また曳山車の曳き出す際には木遣り唄の後綱を引く。 1910年(明治43年)以降町内に電線が引かれる様になる以前は、曳山車に高さ10間(約17〜18m)の帆柱に3段の判じ絵たてもんを飾り付けており、富山の町からも見えたといわれる程高いものであった。また明治以降も背の高いたてもんが載せられた記録と写真が残っている。 2006年(平成18年)には新川町が、富山ライトレール開業や大町通りの無電柱化を祝い、高さ18mの1902年(明治35年)当時の曳山車を、約100年ぶりに再現し展示を行った。また判じ絵も当時のものを再現している。
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