安永の曳山車騒動と津幡屋与四兵衛
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「高岡御車山祭」の記事における「安永の曳山車騒動と津幡屋与四兵衛」の解説
安永の曳山車騒動は、1775年(安永4年)に高岡(御車山)と放生津(新湊)曳山の間でおこった、車輪(曳山車)を巡る騒動で、その後の加賀(主に現在の富山県西部)、越中各地の曳山祭りならびに曳山の発展に多大な影響を与えた大事件である。 高岡御車山の7基の山車は、豊臣秀吉が使用した御所車を前田家より拝領し山車へ改造した特別な由緒正しい山車とされるため、高岡側は1762年(宝暦12年)近隣の町が御所車と同じような大八車(外車)様式の輻車(やぐるま〔スポーク式〕)の曳山を曳こうとしていたところ、加賀藩に抗議し中止を認められ、それ以降同じ様な山車(曳山車)を曳き回す事は認めない事を取り付けていた。しかし1774年(安永3年)に近郊の町(城端・今石動〔石動〕)が類似した曳山車を製作したため説得し、ともに翌年の春季祭礼の曳山の曳き出しを差し止めた。一方放生津では、この騒動以前より大八車(外車)様式の曳山を保有していたが、1773年(安永2年)に大八車(外車)を高岡に修理に出した際、高岡の曳山総代より「御車山に似た車輪である」として差し押えられたため、役所に請願書を出すなどして曳山祭りの復活に奮闘したが、なかなか許しが出ず曳山が曳けない状態で苛立ちが募っていた。しかしその車輪も返還され、1775年(安永4年)にはなんとか一時的な対処として、車輪に板を張付けて曳き回す事が許可され、同年9月15日に待望の祭礼が執り行われた。 祭の当日、高岡二番町の若頭であった津幡屋与四兵衛とその一行が放生津に検分と称し見物に出掛けたところ、立町の曳山が板を取り付けていなかったため抗議したが、放生津側は「曳き回しの途中で板が外れた。だがそれをもう一度取り付けろとのお達しは受けていない」と主張、与四兵衛側は「板を付けないで曳き廻すことはならぬ。もう一度取り付けろ」、放生津側は「いや、付け直す必要は無い」と争論になり、やがて与四兵衛達一行が鳶口などを振り回すなど騒動を起し、与四兵衛を含め3人が来町中の魚津の役人に捕まり投獄された。 高岡側は抗議し、与四兵衛も投獄後高岡側の主張を繰り返していたが拷問を受け衰弱して獄死した。しかし与四兵衛の死後、1776年(安永5年)2月には高岡側の主張が通り、その後明治の初め頃まで加賀や越中では、他町の曳山は大八車(外車)使用が認められず地車(内車)の曳山のみが認められることになった。そのため現在富山県内に現存する曳山の殆どは大八車(外車)様式の輻車(やぐるま)または板車だが、内車から外車に変更されたのは明治時代になってからであり、各地の曳山は騒動をきっかけに、曳山の塗り(漆工)、彫り物(彫刻)、金具(彫金)など装飾の充実に力を注ぐこととなり、県内には絢爛豪華な曳山が揃う一端ともなった。 この騒動で高岡では、津幡屋与四兵衛は御車山の由緒と威厳を守った安永の義人として、「弥眞進大人命(まごころいやすすめうしのみこと)」と崇められ、関野神社に祠を作り毎年4月3日に与四兵衛祭を執り行なうとともに、同日にその年の御車山祭の詳細を取り決めており、与四兵衛祭は、2007年(平成19年)に、「とやまの文化財百選(とやまの年中行事百選部門)」に選定されている。また二番町の与四兵衛生家跡には1991年(平成3年)に石碑が建てられ、5月1日の祭礼当日は石碑に供物を供え、すべての山車がその前で止まり詣でる。 なおこの騒動の判決後各町の評論では、「今日も御車山の由緒を守り伝承されてきた事に、先人達に感謝する」とする高岡側と、判決によって大八車(外車)様式の車輪が今後使用できなくなったうえに、取り調べを受け入牢させられた者がいたり、曳山祭り自体がしばらく中止に追い込まれたり、曳山や車輪を没収されたりしたことなどから、放生津や城端、今石動などの騒動に巻き込まれた町では、「歯切れの悪い結果」、「御車山祭が始まった経緯などから、為政者が藩の威厳を守るため勝手な論理を持ち込み、他の曳山の追随を認めたくなかった高岡側を擁護した」と厳しい論評をするなど、判決の評論には大きな相違がみられることとなった。
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