明治大学野球部監督として
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「島岡吉郎」の記事における「明治大学野球部監督として」の解説
1952年1月7日、かねてから助監督として務めていた明治大学野球部の監督に就任。大学当局(双葉山を発掘した双川喜一専務理事(当時)という説がある)による人事であったが、応援団出身・野球未経験の島岡の就任は驚天動地であり、駿台倶楽部(監督人事権を強力に有していた明治大学野球部OB会)と激しく対立した。結果、前主将の呼元正照ら部員8人の集団退部を招いた。 就任早々から部内の意識改革(当時の明大野球部員の授業出席率は2%程度)や、設備の充実(調布市深大寺南町に所在した旧野球部専用球場の用地買収等)に着手する。 就任1年目に日本中の高校、野球部長に手紙で告知の上、大阪・藤井寺球場にてセレクション目的のキャンプを実施。集まった60名の中から、後に日本野球史に残るバッテリーと呼ばれる、岡山東高校の秋山登-土井淳の獲得に成功。就任4シーズン目、秋山を筆頭とする「明大五人衆」を擁して1953年秋の東京六大学秋季リーグ戦において1942年春季以来11年ぶりの優勝。明大に戦後初の天皇杯をもたらした。 続く1954年春季リーグ戦にて連覇を達成し、翌1955年春季リーグ戦も制した。この年、戦後初となる海外遠征を台湾で行い、日本のスポーツ団体では初めて蔣介石と会見した。 1961年、学生紛争の最中、学内過激派に「2億円もかけて野球部専用球場を作って最下位ではないか。優勝できないなら週3日学生に開放しろ」と脅され激昂し、「年長者のおれに彼ら(過激派)はあんた呼ばわりして一切の敬語を口にしない。どんなに頭が良くてもこういう男は世に出て使い物にならない。おれはお前たちを世に出て使い物になれるように殴って育ててきた」 と選手に訓示を述べ、6年ぶりにリーグ優勝。 1962年6月28日、勇退し総監督に就任するが、実質的な権限を新監督の栗崎武久に譲らなかった。辻佳紀主将が「4年生の総意」として栗崎に指揮権を譲るよう説得し、辻の主将退任と引き換えに指揮権を譲った。 1965年監督に復帰。1978年春季リーグ戦を最後に再び勇退するが、1980年大学創立100周年を控え三たび監督就任。創立100周年となる1981年の春季リーグ戦を優勝に導いた。 1980年代後半からは糖尿病、リウマチ系障害により体調を崩したが、車椅子姿で指揮を執り続けた。 1988年3月6日、試合を見ながら昼食を取り始めたところ、おでんのちくわを喉に詰まらせて意識不明の重体となる。その後意識が回復して歩行訓練をするまでになったものの、再び神宮球場に立つことはなく、11月12日秋季リーグ戦を最後に監督を退き総監督に就任。1989年4月11日、春季リーグ戦開幕直後に死去、享年77。「打倒早稲田」「打倒慶應」を旗印としていた島岡の死去は、リーグ開幕戦において明治が早稲田から勝ち点を挙げた翌日のことであった。 37年間にわたって明治大学野球部の指導的立場に就き、東京六大学リーグ戦優勝15回、全日本大学野球選手権大会優勝5回、明治神宮野球大会優勝2回、日本代表チームの監督も務め日米大学野球選手権大会優勝2回の記録を残した。 明治大学硬式野球部監督時代の教え子には秋山登、土井淳、近藤和彦、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩らがいる。 没後、1991年に競技者表彰で野球殿堂入り。競技者表彰はプロ野球選手または審判などが選出されることが大半であり、島岡はプロ野球に関与しなかった者として初めて競技者表彰での殿堂入りとなった。
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