旧伊方町
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1955年に昭和の大合併で伊方村と町見村が合併して誕生した(旧)伊方町は、「日本一細長い半島」である佐田岬半島の付け根部分に位置していた。町の大部分が海岸から30度前後の急斜地にあり、平野が少ない上に水資源も乏しい地域である。そのため、伊方原発建設までは段々畑を利用した柑橘類栽培と沿岸漁業で成り立っていた。第一次産業中心で収入が少ないため、阪神地域への出稼ぎも多く、医療・教育などの住民サービスも未整備な状況であった。地域経済や住民生活は隣の保内町(現・八幡浜市)に頼っていたが、鉄道はなく、1987年に国道197号線が整備されるまでは極めてアクセスが悪い地域であった。高度経済成長に入ると若年層を中心に人口が流出し、過疎化が急速に進行した。そこで1969年に町長・地主・漁業関係者らが四国電力に対して、原発誘致の陳情を行った。当時、原子力開発に取り組むも住民の反対運動で原発立地を確保できなかった四国電力は、この陳情を受けて1973年より伊方原発の建設を開始した。こうして伊方町は原発中心の経済に移行した。 原発によって多くの作業員が伊方町で働くようになったため、建設業・サービス業(宿泊業など)で特に多くの需要が生まれた。ただし、建設業・宿泊業は大規模工事や定期検査の時期に大きく需要が伸びる半面、それ以外の時期は仕事が大幅に減るなど不安定な経営状況にあった。また、伊方町には商店や遊興施設が少なかったため、市街地がある八幡浜市・保内町に宿泊する作業員も少なくなかった。建設業も地元業者は下請けが主であり、建設費の大半は町外に流出していた。そこで1984年に商工業協同組合が結成され、四国電力とその関連会社に、地元での商品購入、地元住民の優先的な雇用、労働者の地元での宿泊を求めるようになった。ただし、四国電力側には従う義務がないのでそれほど効果はなかった。なお、農業は賃金が割高な原発作業に労働力を取られ、高齢化や後継者不足もあって衰退していった。 伊方町の人口は原発の稼働後も減少傾向をたどっている。建設時には一時増えたものの、1965年には9924人いた人口が、2003年には6746人にまで減少してしまった。地場産業が乏しく、原発関連産業での雇用も限られているため、主に若年層の流出(社会減)が激しかった。ただし、人口減少の度合いは同じ佐田岬半島の近隣自治体と比較すれば緩やかなものであった(1965年から2000年にかけて、瀬戸町は6626人から2818人に、三崎町は9269人から4154人に減少した)。 伊方町の財政力指数は1966年から1973年までは平均0.13に過ぎなかった。しかし、四国電力からの町税、国からの電源三法交付金などによって1983年以降は断続的に地方交付税(普通交付税)の不交付団体になるなど、良好な推移を遂げるようになる。1966年には町の普通会計で歳入2億7183円だったのが、1974年には16億1415万円に急増、2003年には71億8454万円にまで拡大した。四国電力からの町税には、固定資産税・住民税・電気税(1989年まで)があり、そこから得られる金額は電源三法交付金よりはるかに大きかった。ただし、原発は減価償却によって会計上の価値が目減りするため、建設から時間が経つと固定資産税も減少する仕組みになっている。ほかの原発立地自治体と同じく、伊方町にもハコモノが多く、建設費・維持費に莫大な経費がかけられている。また、住民たちには原子力発電施設等周辺地域交付金(電気料金割引制度)が世帯ごとに配られていた。
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