旧伊勢ヶ濱一門
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1930年代、清瀬川敬之助が興した伊勢ヶ濱部屋に、本家筋の熊ヶ谷部屋、大坂相撲から東京に合流した朝日山部屋が加わり一門を形成した。戦後は立浪一門と連合を結成し、立浪・伊勢ヶ濱連合を称していたが、2007年1月場所限りで旧・伊勢ヶ濱部屋が消滅した事により立浪一門に改称、伊勢ヶ濱一門は消滅した。消滅の事情については旧・伊勢ヶ濱部屋の実質上最後の師匠である清國勝雄の項も参照のこと。 旧伊勢ヶ濱一門系の相撲部屋は、2015年1月の朝日山部屋の閉鎖により、すべて消滅した。現在の「伊勢ヶ濱一門」は立浪一門が立浪部屋の離脱により名称を変更したもので、旧伊勢ヶ濱一門との直接の関係はない。また、現存の伊勢ヶ濱部屋・木瀬部屋との師弟関係も存在しない。ただし、旧立浪一門は旧伊勢ヶ濱一門と前述の通り連合(組合)を組織していた他、安治川部屋から現伊勢ヶ濱部屋の名称変更は旧伊勢ヶ濱部屋の元師匠の清國の指名により行われ、現伊勢ヶ濱部屋には旧伊勢ヶ濱部屋の力士であった大一心が桐山部屋、朝日山部屋への移籍を経て所属していた(2019年1月場所で引退)など、両一門での人的な関係は強かった。
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旧伊勢ヶ濱一門
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1958年(昭和33年)9月場所限りで引退した追手風部屋(大関・清水川)所属の元小結・清水川は、年寄名跡・間垣を取得、16代間垣を襲名して追手風部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1959年(昭和34年)2月1日付で追手風部屋から分家独立して間垣部屋を創設した。 しかし関取を育てることができず、幕下に幕内(本名・幕内邦雄)という力士がいたことが話題になった程度で、結局1975年(昭和50年)1月場所限りで部屋を閉じた。この間垣部屋には、後にプロレスラーに転向した上田馬之助(上田山→海部錦)や松岡巌鉄(正剛山)も入門していた。
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