日本領への編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 01:31 UTC 版)
1885年、北大東島、南大東島の両島は日本領に編入される。しかし同じ大東諸島に属しながら、この時沖大東島の日本領編入は行われなかった。その後、南方への関心が高まっていく中で南北大東島の開拓への動きが見え始めた1891年に、アメリカ船籍の船、キットセップが大東諸島付近で遭難して南大東島に乗組員が漂着した。漂着後、船長以下4名がカッターに乗って沖縄本島に辿り着いて救援を要請し、要請を受けて沖縄県は南大東島に救援船を派遣する。この事件をきっかけとして沖縄県は海軍省に南方探検を目的とした軍艦派遣を要請した。 沖縄県側の要請は受け入れられ、1892年8月に海軍艦船海門が派遣された。那覇に来航した海門の艦長柴山矢八に対し、沖縄県側は南北大東島や尖閣諸島に属する島々は既に探検が行われているとして、未調査のラサ島と南波照間島を優先的に探検するよう要請した。しかし海門は那覇を出港するとまず南大東島へ行って7名が上陸して調査を行わせ、その後ラサ島に向かって3名を上陸させて約1時間半の調査を行った後、再び南大東島に戻って上陸調査中の7名を帰船させると、北大東島は上陸すらせず洋上からの視察で終え、帰途についた。 この短期間の海軍艦船海門による大東諸島「探検」について、笹森儀助は職務を忘れ、探検の精神をおろそかにしたものであると痛烈に批判した。なお、わずか1時間半の上陸であったが山下源太郎大尉ら上陸者は、「ラサ島探見報告」を艦長の柴山に提出した。山下らはラサ島は台風による高波の影響からか沿岸部に草木が無いものの、内陸部は草木が鬱蒼と生い茂り歩くのも困難であること、そしてアホウドリの群れが巣作りしていて小鳥は人間を恐れる気配が全くないこと。また、水源は無さそうで漂流民やその他人が住んだ形跡は全くないと報告した。 1898年9月、南鳥島の開発を行っていた水谷新六がラサ島を探検している。水谷の目的はアホウドリの羽毛採取であった。1899年6月、今度は宮古島で人頭税の廃止に向けて活躍した中村十作がラサ島を探検する。 中村は1900年6月、内務省にラサ島の借用願いを提出した。提出を受けた内務省はラサ島についての情報が全く無くて困惑した。そこで内務省は海軍省水路部に尋ねてみたところ、水路部からは1892年の海門による調査等の資料が届けられた。島の実在を確認した内務省は、沖縄県にラサ島を沖縄県島尻郡に編入する手続きを行いたいが意見を聞きたいとの照会文を送付した。内務省からの照会文に対し、沖縄県知事奈良原繁は「沖縄県の管轄として島尻郡に編入すべきである」と回答した。 1900年9月11日、内務大臣の西郷従道は、中村十作による借用願いが提出された所属未決定の島であるラサ島の所属を決定すべきであるとして、正式に日本領として沖縄県島尻郡に編入し、島名を「沖大東島」とする案件を閣議に諮った。西郷の提案は了承され、新たに沖大東島と名付けられた島は沖縄県島尻郡に属することが閣議決定された。閣議決定を受けて西郷内務大臣は沖縄県に訓令を発し、それを受けて県は10月17日、沖大東島を正式に沖縄県島尻郡に編入する告示を行った。 なお、沖大東島の日本領編入のきっかけとなった中村十作の借用願いは返戻扱いとなったため、借用は行われなかった。
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