日本領編入と南鳥島命名
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水谷はアホウドリ羽毛採取事業開始後の1897年3月22日に、後付けの形で内務省に島発見の届け出と日本領編入の要請を行った。また同年4月5日には東京府にも海鳥捕獲と漁業の事業許可申請を提出する。 水谷の申請を受理した内務省は、1895年に日本とスペインとの間に締結された、台湾とルソン島間のバシー海峡中央以北を日本領、以南をスペイン領とした条約の内容から、水谷が申請した島の緯度はバシー海峡中央以北であることを確認して条約上の問題が無いことを確認した。1898年3月14日、内務大臣は閣議に水谷が編入を申請した島を「水谷島」と命名して日本領とする案を提出した。一方東京府側は5月20日に島名を南鳥島とするのが適当であるとの案を出した。 1898年7月1日の閣議で、問題の島が既に水谷新六の手によって労働者が移住し、羽毛採取事業が行われていることから、「国際法上、占領の事実があると認められる」として日本領編入を決定する。7月19日には内務大臣板垣退助が、東京府知事に島名を南鳥島とし、小笠原島庁の所管とすべきと訓令した。そして7月24日の東京府告により、正式に南鳥島と名付けられ、日本領編入、東京府小笠原島庁の所管となった。
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