日本領事館陥落と避難民への艦砲射撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
「尼港事件」の記事における「日本領事館陥落と避難民への艦砲射撃」の解説
3月14日早朝、パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガトリング砲で攻撃した。 グートマンは、包囲突撃に参加したパルチザンの、次のような話を紹介している。「石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた」。しかし一方でグートマンは、生き延びた領事館の使用人が、「領事は妻と子供を射殺し、火を放って自殺した」と語ったとも記している。領事館の隣人・カンディンスカヤ夫人は、ボルシェビキからの保護を求めて領事館に駆け込んだところが、領事は「領事館の日本人は死を覚悟している。あなたが生存を望むなら早くお逃げなさい」と言い、また領事夫人は、子供に晴れ着を着せながら泣いていた、といった証言を行っていることから、結局、グートマンは、領事と夫人は最初から死を覚悟していたのだろう、と結論づけ、しかし、領事館の火災については、パルチザン部隊が投げた手榴弾によるものだった、としている。 当初、日本に伝えられた話では「石田領事は三宅少佐と差し違えて死んだ」ということだったが、石田領事などの遺骨を日本へ持ち帰った和田砲兵大尉によれば、「三宅少佐は領事館に押し寄せた敵に最後の戦いを挑んで、銃弾に倒れた」ということである。 ともかく、領事館は炎につつまれ、領事館を守護していた海軍無線電信隊は、石川少佐、三宅少佐以下、全員戦死。石田領事とその妻子、領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した。 グートマンは、このとき、「凍結した港内にいた中国砲艦は、日本領事館の方向から突進してきた日本軍兵士と日本人居留民に発砲し、人々は、パルチザンと中国人の十字砲火の中で、全員死亡した」としている。これについて、グートマンと同じ生き延びたロシア人からの聞き取り調査を資料としたと思われる石塚教二の『アムールのささやき』は、「憲兵隊と合流していた後藤隊の残存者たちが、領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたところ、砲艦は居留民に発砲したので、後藤隊は砲艦に突進して全滅した」と解釈している。井竿富雄山口県立大学教授も中国軍は助けを求める在留邦人を撃ったとしている。 なお、グートマンは、日本軍の戦闘について、こう書いている。「明らかに、日本軍は、無用な血を流すことを意図してはいなかった。あらゆる可能性の中で、日本軍が目標としたものは、単にパルチザンの武装解除であった。このことは、日本軍に取り囲まれた建物のパルチザンの多くが、殺されていなかったのみならず、傷ついてさえもいなかったという事実がこれを説明している。パルチザンによる報告では、日本軍は、単に彼らの武器を持ち去り、彼らを自由にさせた。9人の医助手が、巡回裁判所の反対側の建物で逮捕された後、解放された。建物に駆け込んだ時、日本軍兵士たちは、単にそこに武器があるかを質問したのみで、否定的な返事を受け取ると、彼らはロシア人を害することもなく立ち去った」
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