日本・ドイツの「近代の超克」
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「オクシデンタリズム」の記事における「日本・ドイツの「近代の超克」」の解説
一例として1942年7月、著名な学者や知識人が京都で開いた座談会、「近代の超克」がある。当時は日本軍が真珠湾攻撃でアメリカの戦艦を爆撃した7ヶ月後であり、愛国的熱狂が頂点に達していた。出席者はいずれも、「西洋」への攻撃に喜びを表明したナショナリストであり、彼らは日本ロマン派の作家、仏教やドイツ哲学(ヘーゲル)の影響の濃い京都学派の哲学者、ドイツ社会主義(マルクス主義)からの転向者(林房雄)、ドイツ社会主義批評家(小林秀雄・亀井勝一郎)等だった。そこでは「日本の指導のもとでのアジア新秩序」というプロパガンダに与し、 西洋化とは、日本精神に取り憑いた病気のようなものである … 近代的なものとは、ヨーロッパのものである 知識の専門分化が東洋の精神文化に危機をもたらした 等と主張された。そして、科学、資本主義、先進技術の日本社会への浸透、個人的自由という概念、民主主義といった類のすべてが「超克」されねばならない、とされた。座談会の出席者の一人、映画評論家の津村秀夫は、ハリウッド映画を激しく非難し、レニ・リーフェンシュタールの撮ったナチス政治集会のドキュメンタリー映画を絶賛した。強力な国家コミュニティをどう建設するかにおいて、後者の方が彼の考えに近かったからである。津村によれば、西洋に対する戦いとは、「ユダヤ人の金融資本」によって作られた「有毒な物質文明」との戦いだった。そして文化―伝統的な日本文化―は精神的かつ深遠であるのに対し、現代西洋文明は軽薄で根無しで創造性を破壊するものだという見解は、座談会の出席者たちの間で一致していた。彼らの考えでは、西洋(特にアメリカ)は冷淡で機械的である。そこで日本の皇道支配の下に、長い伝統を持つ東洋が統一されれば、慈愛に満ちた有機的かつ健全なコミュニティを取り戻せる、とされた。 「日独関係」、「日独伊三国同盟」、および「枢軸国」も参照 アジア人にとって当時―そして今日でもある程度―は、「西洋」が「植民地主義」をも意味した。日本は西洋列強の権力の源になっている考え方や技術―ヨーロッパの衣服、プロシア憲法、イギリス海軍の戦略、ドイツ哲学、アメリカ映画、フランス建築など様々なもの―を、「文明開化」を通して模倣し適応していった。このような大規模な変革で日本は植民地化を免れた上に、列強の仲間入りを果たし、1905年には近代戦を戦って日露戦争に勝利した。レフ・トルストイは 日本の勝利は、ロシアのアジア的魂が、西洋の物質主義(日本の近代軍備)に屈した結果だ と評している。だが日本より少し前に近代化していたドイツと同様、急激な近代化を行ったことで、日本社会には混乱がもたらされた。ついには歴史をくつがえし、西洋に打ち克ち、近代的なまま理想化された精神的過去に帰る方法が議論されるようにもなった。
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