日本の奇門遁甲
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西暦602年(推古10年10月)、百済の僧観勒が天文、遁甲、暦書を伝えたのが最初(『日本書紀』)の記録である。民間ベースではそれ以前にも色々な種類のものが伝来していた可能性がある。 隋の文帝のとき(581年-604年)行政上、軍事上の理由から発禁され、それにならい日本でも「養老令」(職制律、雑令)で禁じた(太一、遁甲)(制定718年、施行757年)。戦国時代には、日本の風土に合わせて改変された奇門遁甲ないし八門遁甲が生み出された。これらは軍配者とよばれた軍師によって使用された。現代にも甲州流などの日本独自の奇門遁甲が伝わっており、作盤方法のいくつかは公開されている。近世、江戸時代には明代・清代の遁甲書が多数輸入されて研究の対象となった。 明治・大正時代になると、栗原信充著「遁甲提要」「遁甲儀」「遁甲譚」、多田鳴鳳著「八門遁甲秘録」、松浦琴鶴著「奇門秘録」、立川小兵衛著「遁甲奇門」、村田徽典「八門遁甲或問鈔」、犬山龍叟著「八門遁甲陰陽発秘」、柄澤照覺著「八門遁甲秘伝」、陽新堂主人著「八門遁甲天書」(四季の書)四巻・「孔明八陣出没変化之巻」等々が発刊された。 その後太平洋戦争後には、張耀文を掌門とする台湾透派の奇門遁甲が昭和35年以降、内藤文穏や、透派遁甲学会を興した松下文州、佐藤六龍を始めとして数名に伝えられた。その後、透派奇門遁甲自体も出版物、講習を通じて流布されるようになった。透派の奇門遁甲は以下の点で、中国で標準的な遁甲演義等の奇門遁甲とは異なっていた。(後述参照) 従来の奇門遁甲に基づく遁甲盤を『坐山盤』とよび、新たに『立向盤』とよぶ盤とそれを作成するための局数体系を作り出した。 紫白九星を九宮とよんで遁甲盤の要素に組み込んだ。 構成要素である、天干、八門、九星、八神の配布において、洛書の魔方陣に従う飛盤と周囲八宮を回転させる活盤が混在している。 透派奇門遁甲の伝授を日本で最初に受けた内藤文穏は、中村文聡の気学や透派奇門遁甲に加えて、玄空派風水等を取り入れながら、挨星法をベースとする独自の技術体系を作り上げた。内藤自身はこれを、古代の『旋式遁甲』とよんでいる。内藤文穏の専門的な著作には「奇門遁甲金函玉鏡」、「奇門遁甲真義」・「奇門遁甲奥義」・「奇門遁甲密義」(上下1巻)・「奇門遁甲秘義」(機関紙の合本等)等がある。もっとも内藤文穏の著作から『旋式遁甲』には、以下の点で古代の奇門遁甲というよりも透派奇門遁甲の影響が強く残っていることが確認できる。 立向、坐山の二盤が存在する。 局数の体系が立向、坐山ともに透派奇門遁甲そのままである。透派独特の立向の存在や、その局数体系の採用について、内藤著の『秘伝元空占術』といった比較的入手しやすい書籍やその付表等で確認することができる。 透派奇門遁甲の特徴である例外盤が存在している。標準的な奇門遁甲では寄宮法を採用しており、原理的に例外盤は発生しない。 また透派遁甲は当初から、『奇門遁甲造作法』等で四柱推命の喜忌による個人差を主張しており、その関係で奇門遁甲、四柱推命の両方で干関係の吉凶象意を共通化していた。しかし、それは一般的ではなく奇門遁甲の干関係は奇門遁甲独自のものとなっている。武田考玄は透派の干関係を踏襲した。武田考玄著の『極意奇門遁甲玄義』によれば、天地干の関係に基づく吉凶象意である尅応について、ほとんどを透派の干関係の解釈に負っている。ただし武田考玄は『活盤奇門遁甲』、『奇門遁甲全書』の解釈も一部取り込んだという主張をしてはいる。また同じように四柱推命の外格(特別格局)では、子平の喜用の干を使用することで個人差を重視するが、内格(普通格局)の命式に対しては、単純に喜用の干を使用はしないという形で透派遁甲との違いを主張しているが、透派遁甲の影響は色濃く残っている。 もっとも透派掌門である張耀文自身は佐藤六龍と袂を別ってから後の話であるが、講義で子平の喜忌による個人差と奇門遁甲の関係を否定した。
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