新指導部の登場
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太平天国の内紛は、清朝にとって絶好の機会であったといえる。機を逃さず曽国藩ら湘軍は長江上流から攻め下った。 1858年5月の段階で九江が陥落し、さらに一旦壊滅させた江北・江南両大営も再建され天京を包囲した。この結果太平天国はまさに風前の灯火といった状況に陥ったといわざるを得ない。 この時に際し、洪秀全は新しい年若い将たちを投入した。かつて藤県で加入した李秀成やその従弟の李世賢、そして陳玉成らである。若いと言っても、いずれも13、4歳のころから戦場の第一線で活躍していたのであって、経験が浅いという訳ではなかった。実際以後の太平天国は反転攻勢に出た。もう反乱鎮圧が近いと弟に手紙を書き送った曽国藩だったが、その目論見は大きくはずれることになる。次第に形勢が清朝にとって思わしくなくなり、安徽省の三河の戦いでは湘軍は大敗を喫し、太平天国は息を吹き返した。三河の戦い以後、李秀成・李世賢らは江南地方を制圧し、一方陳玉成は安徽省に進軍した。洪秀全は以前に倣って五軍主将を再設し、新たな五人の幹部をこの様に決定した。 中軍主将 楊輔清 (後に輔王) 前軍主将 陳玉成 (後に英王) 後軍主将 李秀成 (後に忠王) 右軍主将 韋俊 (翌年、清に投降した) 左軍主将 李世賢 (後に侍王) 太平天国が一息をついた1859年、馮雲山とともに最も早く拝上帝会に入信した一族の洪仁玕が天京に到着した。彼は清朝との争いの中ではぐれ、香港のイギリス人宣教師の下に身を寄せていたが、何回かの合流が失敗した後、ようやく天京に至った。天京事変によって五王体制が崩壊した後ということもあって洪秀全は驚喜した。早速洪仁玕を干王に任じ、内政を掌握せしめた。 洪仁玕は香港に隠れている間、ロンドン伝道会のアシスタントをする一方、医者や教師としても活動していたらしい。洪秀全と違い、洗礼も受けていた。香港での生活は、洪仁玕を西欧文明に触れさせ、太平天国の首脳や当時の儒家知識人とも違う思考をさせるきっかけとなった。すなわち彼は太平天国において西欧を模範とした制度改革を図った。その内容は『資政新編』に詳しい。まず内政においては、鉄道・汽船といった交通網の整備や鉱山の開発といったインフラ整備、新聞の発行や福祉の充実、科挙改革を提言した。外政的には、西欧を対等のものとして扱い、通商関係を築くことや宣教師活動の許可を主張している。その先進性はこの提言が明治維新のおよそ8年前であることを想起するだけで明らかであろう。 こうした改革提言は、実を結ばなかった。洪仁玕のいうことに洪秀全は妥当という評価を与えていたようだが、その他の首脳たちにとって洪仁玕のいうことはあまりに経験則から離れた事柄であって、有り体に言えば理解不能であった。皮肉にも『資政新編』の内容は、天敵曽国藩や弟子の李鴻章によって引き継がれていく。その改革を後世の史家たちは「洋務運動」と呼ぶ。 王号の乱発 洪秀全は1859年から60年にかけて新指導部の若い将軍たちに王号を授ける事を決め、楊輔清を「輔王」に、李秀成を「忠王」に、李世賢を「侍王」に、陳玉成を「英王」にそれぞれ封じた。1857年までの王号は希少であり、建国当初の東西南北翼の五王の他は、軍功者二名の「燕王」「豫王」、戦死者追封の「奮王」「撫王」「呉王」、洪秀全の兄二人の「安王」「福王」の計12名に限られていたが、1860年以降は士気と忠誠を繋ぎ止める為に王号が頻繁に授けられるようになった。戦況が悪化するにつれて王号の乱発は顕著となり「列王」という数十人がまとめて封じられるものまで登場した。太平天国末期には1,700名以上の「王」がいたと言われる。
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