文芸・芸能の場として
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「会所 (中世)」の記事における「文芸・芸能の場として」の解説
平安時代、連歌のもととなった歌合が、天皇の御所などでも盛んに催されていた。その開催場所は清涼殿や二棟廊などで、公的な場ということもあって、身分により座る場所が決まった。座主から見て、より身分の低いものは、遠くへ、下へ、となっていた。右方と左方もはっきりと分かれていた。また、会の内容も晴儀の場であったし、儀礼的な遊戯・遊宴にすぎなかったが、この性格は白河天皇の時代以降、大きく変った。歌合に対する、文芸としての意識が高まったのである。 この傾向は、鎌倉時代、文芸好きな後鳥羽天皇の時代になるとさらに加速した。この時代には、勅撰集で八代集のひとつの『新古今和歌集』が編まれたが、その編集作業もかねて行われた歌合では、会の効率をあげるため、屋内という閉ざされたところで、身分の高きも低きも一緒のところで歌をよむようになった。そこは、院の邸内という、本来ならば身分秩序が守られるべき場であるはずのところである。このあともずっとこうした傾向がつづいたわけではないが、これは、連歌を開催する場となった会所へとつながる変化であろう。 その連歌といえば、鎌倉時代中ごろから約百年、御霊の鎮魂の性格を持つ花の下連歌が無縁の遁世者によってひらかれ、好評を博していた。花の下連歌には、飛び込みの参加も可能で、連衆のなかに、高貴な身の人、例えば源実朝の側近で、和歌の名手あった素暹法師(東入道、俗名千葉胤行)やさらには上皇がお忍びでまぎれることもあった。南北朝末期、花の下連歌が廃れたとき、その代わりを担った、主に北野天満宮で張行された笠着連歌もまた、参加者の身分を明かさずにおこなわれるものであった。連衆は笠を着て身を隠し、歌をよんだ。笠着連歌は、江戸時代まで続いた。この系譜は、やはり貴賤同座していた会所での連歌につながっていく。 会所の話に戻すと、「内々の御あそび」が会所で盛んにおこなわれた。例えば、連歌以外にも、闘茶などがあり、会所の主室がその会場だった。他にも猿楽の鑑賞、月見、宴会をすることがあった。連歌をおこなうときは、貴賤を問わず参加者は、紙に書き取る役目を担う執筆を中心に円になって、一座をつくった。正方形で完結した場である主室は、連歌の張行には適していた。 室町時代、禅宗文化が栄え、茶礼が盛んになったが、上層階級の間では、義政の時代まで闘茶も広く親しまれていた。会所では主に闘茶と、時には茶礼が催された。また、回茶も行われ、応永23年(1416年)の茶会は盛大なものであった。会所には茶湯所があり、茶湯棚がおかれていた。そこでは同朋衆がつめていて、必要に応じて茶をたてた。義教の室町殿にあった会所泉殿には、将軍みづからが茶をたてることもあったろう、と推測できるような御座所のつくりになっている。 また、花賞翫の風習から花合、花競べなど、後世いけばなに通ずるものも行われた。伏見宮御所で催された七夕法楽のときには、花合が盛んにひらかれ、好評を博した。永享4年の七夕法楽においては、伏見宮の会所(常御所)を65瓶もの花瓶、花で飾ったほどだ。
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