文芸・芸能の場としてとは? わかりやすく解説

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文芸・芸能の場として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 13:59 UTC 版)

会所 (中世)」の記事における「文芸・芸能の場として」の解説

平安時代連歌のもととなった歌合が、天皇御所などでも盛んに催されていた。その開催場所は清涼殿や二棟廊などで、公的なということもあって、身分により座る場所が決まった座主から見て、より身分の低いものは、遠くへ、下へ、となっていた。右方左方もはっきりと分かれていた。また、会の内容も晴儀の場であったし、儀礼的な遊戯遊宴にすぎなかったが、この性格白河天皇時代以降大きく変った歌合対する、文芸としての意識高まったのである。 この傾向は、鎌倉時代文芸好きな後鳥羽天皇時代になるとさらに加速した。この時代には、勅撰集八代集のひとつの『新古今和歌集』が編まれたが、その編集作業もかねて行われた歌合では、会の効率をあげるため、屋内という閉ざされたところで、身分高き低き一緒のところで歌をよむようになった。そこは、院の邸内という、本来ならば身分秩序守られるべき場であるはずのところである。このあともずっとこうした傾向つづいたわけではないが、これは、連歌開催するとなった会所へとつながる変化であろう。 その連歌といえば鎌倉時代中ごろから約百年御霊鎮魂性格を持つ花の下連歌無縁遁世者によってひらかれ、好評博していた。花の下連歌には、飛び込み参加も可能で、連衆のなかに、高貴な身の人、例え源実朝側近で、和歌名手あった素暹法師(東入道俗名千葉胤行)やさらには上皇お忍びでまぎれることもあった。南北朝末期花の下連歌廃れたとき、その代わり担った、主に北野天満宮張行された笠着連歌また、参加者身分明かさずおこなわれるものであった連衆は笠を着て身を隠し、歌をよんだ。笠着連歌は、江戸時代まで続いた。この系譜は、やはり貴賤同座していた会所での連歌つながっていく。 会所の話に戻すと、「内々の御あそび」が会所盛んにおこなわれた例えば、連歌以外にも、闘茶などがあり、会所主室がその会場だった。他にも猿楽鑑賞月見宴会をすることがあった。連歌をおこなうときは、貴賤問わず参加者は、紙に書き取る役目を担う執筆中心にになって一座つくった正方形完結した場である主室は、連歌張行には適していた。 室町時代禅宗文化栄え茶礼盛んになったが、上層階級の間では、義政時代まで闘茶広く親しまれていた。会所では主に闘茶と、時には茶礼催された。また、行われ応永23年1416年)の茶会盛大なものであった会所には茶湯所があり、茶湯がおかれていた。そこでは同朋衆がつめていて、必要に応じてをたてた。義教室町殿にあった会所泉殿には、将軍みづからをたてることもあったろう、と推測できるような御座所のつくりになっているまた、賞翫風習から花合花競べなど、後世いけばな通ずるものも行われた伏見宮御所催され七夕法楽ときには花合盛んにひらかれ、好評博した永享4年七夕法楽においては伏見宮会所常御所)を65瓶もの花瓶、花で飾ったほどだ。

※この「文芸・芸能の場として」の解説は、「会所 (中世)」の解説の一部です。
「文芸・芸能の場として」を含む「会所 (中世)」の記事については、「会所 (中世)」の概要を参照ください。

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