教職時の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:07 UTC 版)
翌10月、成績優秀者として文部省よりイギリスへの2年間の留学を命ぜられる。イギリスでは音声学者のダニエル・ジョーンズからも音声学を学んだ。次いでドイツなどのヨーロッパ各地を訪れた後に帰朝する。帰朝後の1916年(大正5年)2月、母校の東京帝國大学文科大学英文科において助教授に就任、英語英文学の講座を受け持った。1918年(大正7年)からは教育検定試験委員も兼ねている。1920年(大正9年)には"On the Language of the Poetry of Robert Browning"と題する論文により文学博士の学位が授与された。同年8月には東京帝国大学英文科で日本人初となる教授となって後進の育成に励んだ。教材としてはイェスペルセンの著作も用いている。 1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)にかけて研究社から刊行された『英文学叢書』(全100巻)では岡倉由三郎と共に編集主幹を務めている。市河は主にシェークスピアの註釈を受け持った。『英文学叢書』は細分化の進む英語学習と英文学研究を繋ぎ止める特徴的な書物となった。1922年(大正11年)3月にハロルド・E・パーマーが来日してからは、彼とも深く関わった。市河はジョーンズによる発音辞典を「この種の辞典では今迄出たものゝ中の白眉であると云つて宜しからう。」と述べて讃辞を呈し、これを基として1923年(大正12年)に『英語発音辞典』を編纂した。これは前年に神田乃武と金沢久によって編纂された『袖珍コンサイス英和辞典』と共に国際音声字母による表記を広く認知させた。日本国内では後年においてもこのジョーンズ式の表記は使用され、戦後になってアメリカ英語が入ってからも使われ続けた。また、英米ではこのジョーンズ式の表記とは異なる表記が用いられていたが、20世紀の末にはジョーンズ式の表記がイギリスにおいても利用されるようになっている。 1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が施行されると、藤村作、大岡育造、福永恭助、杉村楚人冠、渋川玄耳といった人々から英語廃止論が展開された。市河は帆足理一郎、岡倉由三郎、斎藤勇らと共に、英文学の受容を理由として英語学習擁護論を展開した。1928年(昭和3年)、イギリス王立文芸協会(英語版)名誉会員となった。1929年(昭和4年)には東京帝国大学英文学会の後を受けて日本英文学会を創設、翌年には(第一次)日本シェイクスピア協会を創設しいずれも初代会長を務めた。その後も英文教科書や辞書などの著作の執筆を続け、1939年(昭和14年)には帝国学士院会員に最年少者として選出された。併せて同年には顧問を務めていた英語教育研究所(後の語学教育研究所)の所長に就任した。以降も理事長を没時まで務め、30年余りにわたって同研究所に関与した。また、1942年(昭和17年)に設立された慶應義塾大学語学研究所へも、西脇順三郎の推薦により草創期から所員として参加した。戦時下、市河は自身の収集物である欧米学者の研究書籍を同研究所へ寄贈した。これらの書籍は市河文庫として保存されている。1946年(昭和21年)10月、東京帝国大学を定年退職した。
※この「教職時の活動」の解説は、「市河三喜」の解説の一部です。
「教職時の活動」を含む「市河三喜」の記事については、「市河三喜」の概要を参照ください。
- 教職時の活動のページへのリンク