教職時代と留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 11:31 UTC 版)
小学校時代から同級であった鳩山秀夫と重遠は、1909年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に結婚する。重遠は「結婚届出同日主義」をもっており、母を驚かせた。ドイツ法の原書講読を受け持ったが、学生の中には後に同僚となる若き日の田中耕太郎が含まれていた。1910年3月には助教授に昇任し、1912年7月には欧米留学の辞令が発せられている。 1912年10月24日東京を旅立ち、目的地のドイツのボンに12月16日到着。その地では先に留学していた鳩山秀夫が出迎えた。講義を聞くだけでなく、ドイツ婦人からドイツ語とダンスを習った。翌年4月にはベルリンに移った。視察も多く「刑事博物館」「東方文化研究所」「幼年裁判所」「幼年者救護会」「小児食堂」「ペスタロッチ・フレーベル館」など視察している。1914年5月31日まで滞在、6月にはパリに居を移したが、この時も社会見物に精を出している。 ほどなく第一次世界大戦が勃発、1914年8月16日にパリからロンドンに移った。ロンドンでは裁判所、陪審員がいる「素人裁判所」を見学している。1915年11月3日の汽船でロンドンを去り、アメリカへ主としてハーバード大学のあるケンブリッジで過ごした。重遠は、判例を素材にした問答式の授業法に興味をもった。1916年1月11日、この地を去りサンフランシスコ経由で横浜には2月22日に着いた。留学の成果としては第一に著書「戦争ト契約」であるが、ドイツと米国で学生生活を味わったこと、社会事業を観察したこと、社会教育の重要性に気付いたこと、婦人問題である、と述べている。
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