救出、生還、査問委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/16 02:05 UTC 版)
「フライアー (潜水艦)」の記事における「救出、生還、査問委員会」の解説
8月30日の集合期日となり、他の8名の難民が一行に加わった。難民にはイギリス人家族4名、開戦時にマニラのニコルス飛行場にいて捕虜になったあと収容所を脱走したアメリカ陸軍兵士2名、アメリカ人エンジニア1名、フィンランド人1名が含まれていた。しかしながら計画は連絡地点の近くに停泊した日本の小型商船によって妨げられた。小型商船に発見される恐れがあったため信号灯は使用せず、手動電源付きの無線を使用した。レッドフィンは無線を受信し、近くで浮上した。レッドフィンは生存者を救助したことに対する報酬として、ゲリラに食物、潤滑油、医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えた。難民と生存者が乗艦し、モロ人の動力艇が危険から脱した後、レッドフィンは停泊していた小型商船に対して砲撃を行った。しかしながら商船は出航し損害を与えることができなかった。レッドフィンは攻撃をあきらめ、ダーウィンに向けて航行した。ダーウィンに上陸したフライアーの生存者は、飛行機でパースに移動した。クローリー艦長が報告書を作成し、彼は脱出を指揮したことで殊勲章を受章した。リデル、ハウエルおよびルッソは脱出での功績を表彰され、8名は全員がパープルハート章を受章した。 クローリー艦長以下が英雄、勇士としてもてはやされる一方、上層部、特に第77.1任務群司令官ラルフ・W・クリスティ(英語版)少将以下には冷ややかな目が注がれることとなった。要は、「バラバク海峡はこれまでも何度か潜水艦が通行し、何も起こらなかった。しかし、ロバローとフライアーが間を余り置かず職雷沈没した。これは上層部が敷設機雷に関する情報収集を怠って、結果的に潜水艦を続けさまに喪失させたのではないか?」というものであった。当該海域は1941年12月7日に伊123が敷設したもので、1943年3月には機雷原が強化された。1944年3月には第三南遣艦隊の敷設艦津軽が機雷原をさらに強化していた。 クローリー艦長の報告書が届くや否や、規定に則って査問委員会が開かれることとなった。委員長の人選が開始されたが適当な人物がおらず、キンケイド中将は合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将に人選を依頼し、キング大将は大西洋艦隊潜水艦部隊司令官フリーラント・ドービン少将を査問委員会のトップとして派遣した。ダービン少将は9月12日にフリーマントルに到着し、クローリー艦長や他の何人かの艦長も参加して委員会が開催された。しかし、ドービン少将とクリスティ少将の間には調査に協力する姿勢が全く見られず、またドービン少将はクリスティ少将の「穴」ばかり探すことに専念し、クリスティ少将の普段の仕事ぶりには全く目を向けなかった。キング大将は後日、「クリスティと喧嘩をさせるためにドービンを送り込んだのではない」と、ドービン少将の姿勢に失望していた。しかし、ドービン少将は必要以上のあら捜しはせず、結果的にクリスティ少将以下は「白」と判定された。クリスティ少将は委員会が終わると、「南シナ海に向かう際には、以後、バラバク海峡ではなくカリマタ海峡を通行すること」と指揮下の潜水艦に通告した。 フライアーは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。フライアーの総撃沈スコアは白山丸 10,380トンのみだった。
※この「救出、生還、査問委員会」の解説は、「フライアー (潜水艦)」の解説の一部です。
「救出、生還、査問委員会」を含む「フライアー (潜水艦)」の記事については、「フライアー (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 救出、生還、査問委員会のページへのリンク