政治活動の活発化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
1950年代に入り、ベルギー領コンゴにもパン・アフリカ主義が普及した。独立を目指す運動は民族的な理由や地理的な理由から数多くの政党や政治グループが成立することによって分断され、互いに対立し合った。最大の政治団体であるコンゴ国民運動(英語版)(MNC)は様々な政治的背景の相違を乗り越えて「妥当な時期」に独立を達成することに専念する統一戦線を組んでいた。パトリス・ルムンバ、シリル・アドゥラ(英語版)、ジョゼフ・イレオ(英語版)が中心になって党の綱領を作成したが、ジョゼフ・カサブブは内容があまりにも穏健的過ぎるとして非難し、署名を拒否した。党の実力者となったルムンバは1959年終わりには58,000人のメンバーを抱えていたと主張した。 MNCの最大のライバルとなったジョゼフ・カサブブ率いるアバコ党(英語版)(ABAKO)は即時独立と地域へのアイデンティティーの促進を根底として、MNCより急進的な思想を主張していた。ABAKOはMNCよりも民族主義的な立場を取っていた。独立したコンゴは植民地時代以前に存在していたコンゴ王国の後継としてコンゴ族によって統治されるべきという主張であった。 モイーズ・チョンベ率いるコナカ党(英語版)(CONAKAT)は第三の主要政治団体であった。主にカタンガ州南部の利害を代表し、連邦主義を提唱していた。この他にもアフリカ連帯党(英語版)(PSA)のような社会主義の民族主義政党や、少数派民族集団の利害を代表する派閥なども結成された。 MNCは当時のアフリカで最大の民族主義政党であったが、多くの問題で異なる立場を取る様々な派閥を抱えていた。このために穏健派と急進派の二分化が進行した。ジョゼフ・イレオとアルベール・カロンジ(英語版)率いる党内の急進派は1959年7月に党から分離するが、MNC党員を大量に離党させて自分達の陣営に引き入れることが出来なかった。大多数派はMNC-ルムンバ派(MNC-L)、これらの反体制の急進派はMNC-カロンジ派 (MNC-K)という風に呼ばれるようになった。ルムンバ派は主にスタンリーヴィル地域の北東部で人気を保持し続けた一方、カロンジ派はエリザベートヴィルより南の都市を中心として、ルバ族の間で最大の人気を獲得した。 1959年1月4日、コンゴの首都レオポルドヴィルで行われていた政治的なデモ活動が暴力的になり、暴動に発展した。国家憲兵のコンゴ公安軍は暴徒に対して武力を使用した。少なくとも49人が死亡し、総死傷者数が500人を超えていた可能性もあると見られている。民族主義政党の影響力がこの時に初めて主要都市の外に波及し、これ以降の1年間は民族主義的なデモや暴動が頻発するようになり、それまで関与していなかった大多数の黒人も独立運動に参加するようになった。多くの黒人は税金の支払いや軽微な植民地の規制の遵守を拒否することによって植民地体制の限界を試すようになった。ABAKOの指導者の多くが逮捕され、MNCの影響力が以前よりも強まった。 こうした動きを警戒して白人社会の間に過激思想が広まった。一部の白人は黒人が過半数を占める政権が成立した場合には、クーデターを実行することを計画した。白人の民間人は「欧州ボランティア隊」の呼び名で知られる民兵組織を形成し、法と秩序が崩壊し始めた。白人の民兵は頻繁に黒人を襲撃した。
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