政治活動の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 00:25 UTC 版)
「エヴァリスト・ガロア」の記事における「政治活動の激化」の解説
以前、ガロアが執筆した論文が不運によって2度も紛失したことに同情した学士院のシメオン・ドニ・ポアソンが、ガロアにもう一度学士院に論文を提出するよう呼びかけ、その誘いに応じて1831年1月17日に再度11ページの論文「方程式の冪根による可解条件についての考察」(Mémoire sur les conditions de résolubilité des équations par radicaux)を提出した。また彼は1月13日より毎週木曜日、ソルボンヌ通りのカイヨー書店において、いくつかの新理論を含めた代数学の講義を行うなど、数学的活動を続けていた。一方で、その頃のガロアは相当荒んでいたようで、女性数学者ソフィ・ジェルマンはその様子を記した書簡を残している。それによると、ガロアは数学の会合で悪態をつき、さらに家庭でも生活態度を改めなかったために母は家を出ざるを得ない状況となり、まるで狂ってしまったようだったという。また、親族の言い伝えによれば、ガロアは家族の前で「もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい」と口にしていたという。 4月、解散を命じられた国民軍19人が制服を着用してパリの街中を歩いたために逮捕された。この事件は5月2日に無罪判決が出たが、その日の夜にレストランで開催された祝宴会において、ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んだ。これが王の命を脅かすものとして、翌日ガロアは逮捕された。6月15日に開かれた裁判では、ガロアは自分が不利になる供述も平然と行ったが、弁護士の努力により無罪となった。この裁判の模様は、アレクサンドル・デュマの回顧録にも詳細に記載されている。 7月14日、ガロアは法学の学生で同じ「民衆の友の会」会員のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服と以前王の命を脅かしたナイフを着用してパリ市内を行進し、ポン・ヌフ橋上で逮捕された。12月3日に有罪が確定し、デュシャートレは禁固3ヵ月、ガロアは禁固6ヵ月の刑を宣告された。
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