政治活動の始まり
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「ナリマン・ナリマノフ」の記事における「政治活動の始まり」の解説
ロシア第一革命の影響で帝立ノヴォロシア大学が一時閉鎖されていた間、ナリマノフはバクーへ帰省していた。その際に1905年、彼はロシア社会民主労働党へ入党。イスラム社会民主主義組織のヒンメトへ加盟し、イラン社会民主党(英語版)の設立にも参画した。翌1906年にはロシア社会民主労働党の綱領をアゼルバイジャン語に翻訳している。 1906年8月にはハサン・ベイ・ザルダビ(英語版)とナリマノフの主導により、最初のムスリム教師会議がバクーで開かれ、ナリマノフがザルダビ会議の副議長に選出された。ナリマノフの提案で、会議はアゼルバイジャン語の必須科目としての導入と週当たりの授業数の増加、アゼルバイジャン語教師と他の科目の教師との権利の平等化、そしてアゼルバイジャン語教師の就労と公衆の同意による解任を決定した。 会議の参加者の中で自由主義的思想を持つ者は、ナリマノフの提案に非常に否定的であった。バクーの資産家ハジ・ゼイナラブディン・タギエフ(アゼルバイジャン語版)は会議の翌日、ナリマノフを招いて非難の言葉を投げかけた。 昨日の諸君の決定は、会議がナリマノフのような近視眼的な人々によって導かれたことを示している。私はナリマノフが何者であるかを知っている。彼のポケットには1コペイカも入っておらず、彼は私の負担した金銭で教師をしているが、ここで彼は革命的な演説をし、私たちに誤解の目を向けさせる。政府の前で国全体に影響を与える様な昨日の決定を取り消すようにお願いしたい。 批判に対して、ナリマノフは参加者たちから拍手喝采を浴びた非常に印象的なスピーチで応えた。 同志! 私はタギエフ氏からの奨学金を貰っていた者の一人ですが、タギエフ氏が貧しい教師が自分の意見を持たないように支援して下さっていたとは知りませんでした。タギエフ氏が自分の意見だけを通そうとするために学生を支援していたという魂胆の是非は別にして、私は〔タギエフ氏から支援を受けていたという恩義の〕過去があったからといって、〔決定を撤回するという行為をもって〕恥を晒して現在の自分自身を台無しにする行為をとることは出来ません。卑劣な金銭によって沈黙してしまうことは〔自分の良心が〕許さなかったのです。会議の全出席者の前で私たちの時代の専制君主から〔人民を〕解放すること、そして私たちの子孫が卑劣な金銭で自分自身を売らないようにすることを表明し、私はタギエフ氏の奨学金を喜んで辞退します。
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