播州織作家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 16:25 UTC 版)
武庫川女子大学生活環境学科卒業後、服飾専門学校ESMOD JAPONでファッションを学ぶ。専門学校卒業後、大阪の繊維専門商社でパタンナーとして就職するも、仕事内容に物足りなさを感じ1年10か月後には独立。理想の布を探し求めているうちに播州織に出会い、その技術の高さに着目。故郷の福井も織物が盛んな町であったが、すでに素材が絹から化学繊維に変わっていた上に、後染めでもあったことから自分の作りたいものとはなじまず断念し、播州織アーティストとして活動を始める。玉木にとって播州織の魅力は、大量に織った白地の布にプリントする方法とは異なり、先に染めた経糸と緯糸の重なりがさまざまな表情を作り出すことであり、その魅力に魅かれるとともに将来性を感じ取った。当初は生活の拠点を大阪に置いたまま、自らのデザインを西脇の職人に織ってもらい、大阪で販売する形態を3年間ほど続けたが、西脇に直営店を出したことがきっかけで西脇への移住を決意し、自ら織機を操作するにいたる。 玉木が西脇に移住したころには、播州織はすでにとりわけ特色のないシャツ生地の大量生産が主流となっていた時期と重なる。玉木も独立当初は、同様にシャツの生地生産を行っていたが、周囲もこれでよいのかという空気が漂っていた。ある時、生地の製作中に偶然に縫うことすら難しいほどの柔らかい生地が織り上がり、首に巻いたところ大変に着け心地がよいことを発見する。これが、その後メインの作品となる綿菓子のように柔らかい感触のショールの誕生に結び付き、「性別・年齢・国籍を問わず誰にでも愛される独創的なショール」をコンセプトに開発を継続。アトリエに1965年製のベルト式力織機を導入し、自らが織り上げる「only one shawl」は最新の機械では出せない独特な織柄の立体感で特に評価が高い人気商品となる。現在は、ショールを中心に、シャツ、パンツ、子供服、バッグなどを製作している。全国各地のセレクトショップ、百貨店での販売や展示会を開催するほか、作品は海外でも評価され、2017年3月現在でアメリカ、カナダ、イギリス、ベルギー、台湾ほか、卸先は世界15か国、200店舗に及ぶ。 玉木のモノづくりの探求は、偶然に播州織と播州織職人に出会い自ら力織機を操作することから始まり、現在はオンリーワンを目指すため、糸染め、縫製、加工までの一貫した工程にまで発展し、古いシャトル織機や糸染め機、整経機、CAD/CAM、さらに多色の糸を次々とつないで一本の糸に巻き取ることで虹のような色のグラデーションが作り出せるアレンジワインダーや、無縫製で編める編み機である最新鋭の島精機製作所製ホールガーメントの設備を整えるLabを持つにまでにいたった。玉木は播州織の技術の高さを生かすとともに、徹底した消費者目線を取り入れ、歴史や既成概念にとらわれずに、どう作れば面白いかを考え続け、展示商品を頻繁に入れ替えたり、織機の並ぶ工房を一般公開するなどの工夫を重ねた。
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