播州肥田氏
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現在の兵庫県加東市社を発祥の地としている。播磨国廣野を治めた肥田伊織実道(1185年・寿永4年)が始祖。 土肥弥太郎遠平と多田八重女との長男、多田弥一郎実道が後に伊織と改名し、源義経より土肥・多田のそれぞれの一字を取り結んだ苗字を勧められ、肥田伊織実道と改名したことから始まる。 多田八重女は源平の戦いの際に源義経が京の都から一の谷に行軍途中の三草山の戦いで義経からの合力の要請に応えた播磨国廣野(現在の加東市社)を治めていた多田四郎頼道の娘 多田四郎頼道は摂津源氏の源高実と同一人物と言われている(源満中-源頼光-源頼国-源頼綱-多田明国-源行国-多田頼盛-多田行綱・多田知実・源高頼・源高実) 土肥弥太郎遠平は源義経と行軍した侍大将の土肥次郎実平の嫡男。のちの小早川氏の始祖。 三草山の戦いの後、多田四郎頼道の家に源義経一行が立ち寄り、一酒を饗応した際に義経が「幸いなるかな、土肥弥太郎は未だ定まる妻これなく、多田の息女と婚礼を致すべし」と勧め、土肥弥太郎遠平は持病の腹痛が発症し、そのまま当地にてしばらく逗留の際に結ばれ、多田八重女が懐妊した。弥太郎遠平は全快した後、西国の八島へ出立したとされる。
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