播州針とは? わかりやすく解説

播州針

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:58 UTC 版)

釣り針」の記事における「播州針」の解説

日本では特に播州地方において釣り針製造技術発達した。その起源には諸説あるが、天保初頭加東郡池田村(現小野市池田町)の源右衛門京都から技法持ち帰った説、多可郡比延現西市上比延町)の新兵衛弘化年間京都技術習得した説のほか、最も有力な説は、加東郡下久米(現社町下久米)の彦兵衛が、土佐から技術習得し帰郷した説である。彦兵衛当初焼き入れ技術苦労したが、一人失敗重ねながらついに成功しさらにはその技術惜しげもなく弟子同業者伝えたことから、北播州釣針産業発展する最大要因となった。その技術丹波さらには岡山県方面まで伝授された。このため彦兵衛釣針造りの職祖と呼ばれる

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播州針

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:11 UTC 版)

名刀針」の記事における「播州針」の解説

名刀針は、播州針の伝統受け継ぐメーカー一つであるが、播州針の歴史古く天保初頭にまで遡り加東郡池田村(現小野市池田町)の源右衛門京都から技法持ち帰った説、多可郡比延現西市上比延町)の新兵衛弘化年間京都技術習得した説のほか、最も有力な説は、加東郡下久米(現社町下久米)の小寺彦兵衛が、四国霊場巡拝者を偽り数年土佐釣針職人太田某か技術習得し1851年嘉永4年11月帰郷した説である。彦兵衛当初焼入れ技術苦労したが、一人失敗重ねながらついに成功しさらにはその技術惜しげもなく弟子同業者伝えたことから、北播州釣針産業発展する最大要因となったと伝わる。その技術丹波さらには岡山県方面まで伝授された。このため彦兵衛釣針造りの職祖と呼ばれる。しかし、『播州針』を執筆した勝部直達によれば土佐針と播州針では、播州針に土佐針にはある「隠し」という技術がないという違いがあり、土佐の製針技術が播州針には応用されておらず、彦兵衛土佐針の技術持ち帰った説は誤りだと主張する一方播州あらゆる方面で京技術習得に熱心であった地域であることや、多可郡比延行商人らが文政年間以降京都の針所から針を仕入れ京都釣り針商人との間に深い交流があったこと、加東郡池田村の源右衛門京都釣り針技術京都習得したことなどを鑑み、播州針の由来京都だと主張している。 また、播州針が全国広まった理由として彦兵衛販路を開くため、当時寒村多く収入少なかった万石以下の農民たちが行商や出稼ぎ行っていたことを利用した多可郡多く主要な街道に通じており、黒田庄から西脇篠山亀岡から京都へのルートをはじめ、西脇から滝野、社、小野高砂抜けルート蒲江から西脇、社、東条吉川から大阪抜けルート喜多から津万井、西脇北条から姫路抜けルートのほか、大阪明石まで出ると船で四国九州まで行くことも可能であった

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