播州針
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日本では特に播州地方において釣り針製造技術が発達した。その起源には諸説あるが、天保初頭に加東郡池田村(現小野市池田町)の源右衛門が京都から技法を持ち帰った説、多可郡上比延村(現西脇市上比延町)の新兵衛が弘化年間に京都で技術を習得した説のほか、最も有力な説は、加東郡下久米村(現社町下久米)の彦兵衛が、土佐から技術を習得し帰郷した説である。彦兵衛は当初、焼き入れの技術に苦労したが、一人で失敗を重ねながらついに成功し、さらにはその技術を惜しげもなく弟子や同業者に伝えたことから、北播州が釣針産業が発展する最大の要因となった。その技術は丹波やさらには岡山県方面まで伝授された。このため彦兵衛は釣針造りの職祖と呼ばれる。
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播州針
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:11 UTC 版)
名刀針は、播州針の伝統を受け継ぐメーカーの一つであるが、播州針の歴史は古く、天保初頭にまで遡り、加東郡池田村(現小野市池田町)の源右衛門が京都から技法を持ち帰った説、多可郡上比延村(現西脇市上比延町)の新兵衛が弘化年間に京都で技術を習得した説のほか、最も有力な説は、加東郡下久米村(現社町下久米)の小寺彦兵衛が、四国霊場巡拝者を偽り、数年間土佐の釣針職人太田某から技術を習得し1851年(嘉永4年)11月に帰郷した説である。彦兵衛は当初、焼入れの技術に苦労したが、一人で失敗を重ねながらついに成功し、さらにはその技術を惜しげもなく弟子や同業者に伝えたことから、北播州で釣針産業が発展する最大の要因となったと伝わる。その技術は丹波やさらには岡山県方面まで伝授された。このため彦兵衛は釣針造りの職祖と呼ばれる。しかし、『播州針』を執筆した勝部直達によれば、土佐針と播州針では、播州針に土佐針にはある「隠し槌」という技術がないという違いがあり、土佐の製針技術が播州針には応用されておらず、彦兵衛が土佐針の技術を持ち帰った説は誤りだと主張する一方、播州があらゆる方面で京技術の習得に熱心であった地域であることや、多可郡比延村の行商人らが文政年間以降、京都の針所から針を仕入れ、京都の釣り針商人との間に深い交流があったこと、加東郡池田村の源右衛門が京都の釣り針技術を京都で習得したことなどを鑑み、播州針の由来を京都だと主張している。 また、播州針が全国に広まった理由として彦兵衛が販路を開くため、当時は寒村で雪の多く収入の少なかった六万石以下の農民たちが行商や出稼ぎを行っていたことを利用した。多可郡は多くの主要な街道に通じており、黒田庄から西脇、篠山、亀岡から京都へのルートをはじめ、西脇から滝野、社、小野、高砂へ抜けるルート、蒲江から西脇、社、東条、吉川から大阪へ抜けるルート、喜多から津万井、西脇、北条から姫路へ抜けるルートのほか、大阪や明石まで出ると船で四国、九州まで行くことも可能であった。
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