撤退、結果、損失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 14:02 UTC 版)
「ジェンキンスフェリーの戦い」の記事における「撤退、結果、損失」の解説
4月30日午後3時頃までに、北軍は残っていた兵士、大砲と装備、物資搬送用荷車の中で泥に埋まっていなかったものの全てを、セイリーン川を渡すことに成功した。動かせない荷車は燃やした。スティール隊はセイリーン川の北にある湿地でもさらに多くの荷車を放棄せざるを得なかった。4月30日午後にスティール隊が舟橋を渡った後、南軍は新たな攻撃を掛けなかった。朝からの戦闘で南軍は消耗していただけでなく、北軍が川の対岸に大砲と歩兵隊を据えて、橋を渡る兵士を援護していたからだった。スティール隊はセイリーン川を渡った後に、その後の行軍には必要でなくなった舟橋を切って燃やした。南軍は川を渡る方法が無く、追撃が出来なかった。カムデンでスティール軍を取り込めず、セイリーン川に着くまでに遮断もできなかったことで、カービー・スミスの南軍は、アーカンソー州の北軍では主力だったスティール軍を破壊する絶好の機会を逃した。スティール隊は川を渡った後に3日間行軍し、リトルロックの要塞の中で再集結できた。 ジェンキンスフェリーの戦いは参戦した勢力の損失率を考慮すると、南北戦争の中でも流血の多い戦闘の1つとなった。両軍は戦闘に死力を尽くした。南軍の公式損失は戦死86名、負傷356名、不明1名と総計は443名となっていた。この数字は疑いも無くもっと大きいはずであり、ウォーカーのテキサス部隊の損失が分かれば800名から1,000名となっていたと考えられる。ウォーカーはこの戦闘についての報告を行わなかった。北軍の公式報告では、戦死63名、負傷413名、不明45名で、総計は521名となっていた。北軍の数字は、ジョン・セイヤー准将が報告を作成していないので不完全な報告だった。上記のように不完全あるいは紛失した報告書があるという見解の中で、歴史家のシェルビー・フットとグレゴリー・J・W・アーウィンは、ハイドラーの『アメリカ内乱の事典』で、この戦闘による損失を南軍が1,000名、北軍が700名とするのが最良の推計だとしている。 ジェンキンスフェリーの戦いは少なくとも戦術的には北軍の勝利だとされる。南軍の損失が大きかっただけでなく、スティールの北軍が南軍の攻撃を跳ね返すことができた。この結果北軍は残っていた荷車、大砲、装備、騎兵と歩兵を、セイリーン川を渡し、安全だったリトルロックまで無事戻る時間と空間を確保できた。しかしスティールの勝利は戦略的な観点からは無駄だった。カービー・スミス軍は戦場を保持し、スティール隊がバンクス軍に合流して支援することを阻止して、スティールにはリトルロックへの退却を続行させた。この方面作戦全体で、スティールは3,000名の損失を出し、対するスミスは2,000名に留まった。カービー・スミス軍の多くは軽傷だった。スティールは大砲10門を失い、3門を捕獲できた。さらに荷車635両とラバ2,500頭を失い、騎兵1個旅団を構成できるだけの馬も失った。捕獲された物資には弾薬、食料、医薬品があった。北軍はライス将軍を失い、対する南軍はスカリー将軍とランダル大佐を失った。 カービー・スミスがスティール隊を防御の厚いリトルロックの基地外で破壊しようという最後の期待は、ジェンキンスフェリーでの管理の誤り、統制の無いバラバラな攻撃の結果として潰えた。北軍陣地と気象条件が南軍の選択肢を限定していたが、もう少し集中させた攻撃が可能だった可能性がある。南軍は北軍の脆弱だった左翼に力を集中させられず、ケリーの草原を横切る正面攻撃を選んだ。そこでは南軍の歩兵前線が北軍の砲撃で破壊された。ライスがこの弱点を放置していたか、単に防衛の範囲を超えていたとして、南軍がその場所を初期に集中攻撃できなかったことで、ライスにその陣地の脆弱性を知覚させ、前線の左翼を伸ばし、保護させることになった。北軍の左翼が閉じられた後、南軍がそこを衝く可能性が消え、カービー・スミスとプライスがスティール隊の大半を捕獲する可能性が失われた。
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