拠点構築と新たな仲間たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)
「火薬陰謀事件」の記事における「拠点構築と新たな仲間たち」の解説
誓いを立てた後、計画者たちはロンドンを離れて各々の自宅に戻った。今議会は閉会に近づいており、翌1605年2月の開会を前提に計画を進められると考えたが、この時点で何か具体的な案があるわけではなかった。転機は6月9日に、パーシーがノーサンバランド伯から50人からなる国王の近衛隊ジェントルマン・アット・アームス(英語版)(Honourable Corps of Gentlemen at Arms)に任命されたことであった。このことはパーシーがロンドンに拠点を持つこと、すなわち怪しまれずに一味のアジトを作れる理由となり、プリンス・チェンバー(Prince's Chamber)に近い、ジョン・ホワイニアード(John Whynniard)の借地人ヘンリー・フェラーズ(Henry Ferrers)が所有するウェストミンスターの小さな物件が選ばれた。パーシーはノーサンバランドの代理人であるダドリー・カールトン(英語版)とジョン・ヒッピスリー(英語版)を通してこの家の使用人を手配した。さらにフォークスがパーシーの使用人「ジョン・ジョンソン(John Johnson)」として、このアジトに配置されることとなった。この建物には、イングランドとスコットランドの統一(合同)計画の検討を行うスコットランドの委員たちも滞在していたため、仲間たちはテムズ川の対岸にあるランベスのケイツビーの宿舎を借り、そこから保管していた火薬やその他の物資を毎晩、船で運び込めるようにした。一方、この期間中にジェームズは、カトリック対策を進めており、議会は7月7日の休会までに反カトリック法案を押し通していた。 1604年10月、ロンドンに戻ってきた一味は、「破滅して借金を抱えた絶望的な男」ロバート・キーズを仲間に加えた。彼は背が高く赤ひげを生やし、信頼できる人物でフォークスと同様に自分のことは自分でできるとみなされており、火薬などを保管してあるランベスのアジトの管理を任された。また、キーズの家族関係には著名人との関わり合いがあり、彼の妻の雇用主は著名なカトリック貴族のモーダント男爵(英語版)であった。12月、ケイツビーは、自身の使用人トマス・ベイツが計画に気づいたことを悟り、彼も引き入れることを決めた。ベイツは主要メンバーの中では唯一の平民となった。 12月24日、議会の開会が延期されることが発表された。疫病(ペスト)への懸念から、一味が予定していた2月の開会ではなく、10月3日まで開かれないことになった。後の裁判での検察側の説明によれば、この延期期間中、一味はアジトからウェストミンスター宮殿の地下に続くトンネルを掘っていたという。それによればアジトのある建物に滞在していたスコットランドの委員たちが仕事を終えて12月6日に引き払ったことで、一味はトンネルを掘り始めた。しかし、作業中に地上から物音がしたため中断したという(この音の発生源は家主の未亡人によるものであった)。その代わり彼らは最終的に火薬樽を設置することになった貴族院の真下にあたる地下室の片付けを行った。ただ、このトンネルの話は政府の捏造であった可能性がある。検察側はトンネルの存在を示す証拠を提示することはなく、また痕跡も発見されなかったためである。トンネルについての記録は、トマス・ウィンターの自白から直接得られたものだが、ガイ・フォークスは5回目の尋問まで、このような計画があったことを認めていなかった。現実論として、トンネルを掘ることは非常に困難であり、また一味にトンネル堀の経験がある者もいなかった。 旧暦(ユリウス暦)の新年にあたるレディ・デー(英語版)の3月25日、一味が再結集した時、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、クリストファー・ライトの3人が新たに加わっていた。ウィンターとライトの参加は当然とも言えた。ロバート・ウィンターは、トマス・ウィンターの実兄で、敬虔なカトリック教徒であり、かつ寛大で人望のある人物だったと言われる。わずかな財産と共にウスター近郊のハディントン・コート(英語版)を相続したが、この邸宅は神父の避難所として知られるなど、潜伏中の司祭らを匿っていた。また、彼の妻はウスターシャーの有名な国教忌避者であるグラフトンのジョン・タルボット(英語版)の娘ガートルード(Gertrude)であった。クリストファー・ライトは、ジョン・ライトの実弟で、兄やケイツビーと同じくエセックス伯の反乱にも参加し、当時は司祭の天国として知られていた、リンカンシャーのトウィグモア(Twigmore)に家族ごと移住していた。また、1603年のスペイン使節団にもアンソニー・ダットン(Anthony Dutton)という偽名で参加していたとされる(ただし、異論もある)。ジョン・グラントはウィンター兄弟の妹ドロシーと結婚していた彼らの義弟であり、ストラトフォード=アポン=エイヴォン近郊のノーブルック荘園の地主であった。知的で思慮深いと評され、スニッターフィールド(英語版)の自宅にカトリック教徒たちを匿い、彼もまたエセックス伯の反乱に参加していた。ウォリックやストラトフォードに近いノーブルックは、ミッドランズでの蜂起において理想的な場所であり、グラントの役割は1605年の夏の間に同地で武器や弾薬といった物資を管理し、また近くのウォリック城から希少な軍馬を調達することも担っていた。
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