拘留と公判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:11 UTC 版)
捜査当局は公判前の公判付託手続(英語版)実施を決め、手続は1978年11月20日にマインヘッド(英語版)で始まった。ディーキンの法廷弁護士の依頼により、報道制限が解除され、新聞各社は名誉毀損法抵触の恐れなく、法廷での発言を逐一報道できるようになった。この動きは、新聞報道を避けて訴訟棄却に持ち込むために非公開審理を望んでいたソープを激昂させた。結果はどうあれ、ソープは報道の風向き次第で自身のキャリアは打ち砕かれ、スコットの復讐が完遂するであろうことを理解していた。付託手続が始まり、ベッセルは、病気の犬を撃ち殺す話を含め、1969年の会合でホームズがスコットを殺すべきだとソープが仄めかした旨を主張した。法廷の出席者たちは、ベッセルが『サンデー・テレグラフ(英語版)』(『デイリー・テレグラフ』の姉妹紙)と接触し、自身の話と引き換えに5万ポンド(2020年の293,261ポンドに相当)の報酬を得ていた事を知る。ディンショーは、自身がヘイワードから受け取りホームズに流した2万ポンド、またソープによる隠蔽工作の証拠を提出した。ニュートンは、ホームズがスコットの殺害を望んでいたと法廷証言し、「彼は[スコットが]この地球から消え去り、2度と姿を現さなければよいと考えていた。方法は自分に一任された」と述べた。スコットは、ソープの母親宅で受けたと主張するソープからの誘惑、またその他の機会について客観的に詳細まで述べ、ポーロック・ヒルの原野で起きた銃撃事件についても詳述した。付託手続の最後に、治安判事長は4人の被告をオールド・ベイリー(英語版)こと中央刑事裁判所(英: the Central Criminal Court)での公判に付した。 1979年3月、労働党のジェームズ・キャラハン内閣が倒れ、引き続いて5月3日に1979年イギリス総選挙が行われた。選挙の影響で公判開始は短期間遅らされ、地元の自由党員から引き続き支持を得ていたソープは、今まで通りノース・デヴォン選挙区から出馬した。国中で行われた党の選挙運動から孤立させられたソープは、8,000票以上の得票差を付けられ、保守党の候補に敗戦した。 審理は5月8日に始まったが、裁判長は、注目を集める審理の経験に乏しく、あまり有名ではなかった高裁判事のジョゼフ・カントリー(英語版)が務めた。ソープは自身の弁護を、マンチェスターのノーザン・サーキットで刑法事務所を設立していたジョージ・カーマン(英語版)に依頼し、この件はカーマンにとって、初めて担当する全国的に注目を集める裁判となった。カーマンは、ソープへの有罪判決で経済的利益が得られると踏んでいたことをばらし、ベッセルの証言の信用性を損なうことに成功した(ベッセルと新聞社の契約では、ソープに無罪判決が下った場合、支払われる報酬は半額の25,000ポンドになるとされていた)。判事がベッセルの性格について低評価したことは疑いようもなく、公判について本を出版したオーバロン・ウォー(英語版)は、他の証人に対するカントリーの全体的な態度は、どんどんと一方的なものになっていったという。6月7日、ディーキンは公判で、ニュートンをホームズと引き合わせたことは認めつつも、自身では脅迫者への対抗措置を手助けする人物が必要だったのだと考えており、殺人の共謀については全く知らなかったと述べた。ディーキンは公判で証言した唯一の被告で、それ以外の被告は沈黙を貫き、証人も呼ばれなかったが、これはベッセル、スコット、ニュートンの証言に基づいた状態では、捜査当局も有罪を立証できないだろうと考えてのことだった。ソープの代理人として最終弁論に臨んだカーマンは、ホームズらが、ソープのあずかり知らないところで共謀を企てた可能性を提起した。 6月18日、判事は説示を始めた。判事は、被告たちの過去の評判がよかったことに陪審員団の注意を向け、「今まで欠点が無いとの評判だった人物たち」(英: "men of hitherto unblemished reputation.")と述べた。カントリーはソープについて、「非常に有名な公的記録を持つ、国民的な人物」(英: "a national figure with a very distinguished public record".)と述べた。判事は主要な証人たちの瑕疵について述べた。ベッセルは「ペテン師」(英: "humbug")で、『サンデー・テレグラフ』紙と連絡を取ったことは「嘆かわしい」(英: "deplorable")とした。スコットについては、詐欺師、他人のすねかじり、不平ばかりの人物、厄介者だとし、「しかし勿論、彼が真実を話しているという可能性もある。この辺りは信用の問題だ」(英: "but of course he could still be telling the truth. It is a question of belief.")と述べた。ニュートンは偽証者、そして間抜けと表現され、「この件から出来るだけ甘い汁を吸おうとした」(英: "[He] determined to milk the case as hard as he can.")と評された。ソープがヘイワードから得た2万ポンドの謎については、この件に無関係と考えられ、判事は「ある人が金を騙し取ったという事実は、彼が共謀の一因だったことを[証明する]ものではない」とされた。ウォーは判事の公正性に欠ける態度について、被告人に対する陪審員の反作用的態度を生む可能性もあると感じた。説示は風刺家のピーター・クック(英語版)によって痛烈にもじられ、公判の直後には、アムネスティ・インターナショナルへのチャリティイベントである『シークレット・ポリスマンズ・ボール(英語版)』 (1979年版) で、クックの書いたスケッチが上演された。クック版は、フリーマンとペンローズによれば、「実際の所、オリジナルとほとんど差異は無かった」とのことである。
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