戦前の日中共産党の関係とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦前の日中共産党の関係の意味・解説 

戦前の日中共産党の関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 20:43 UTC 版)

日中共産党の関係」の記事における「戦前の日中共産党の関係」の解説

中国共産党1921年日本共産党1922年と、アジア地域の中ではどちらも最初期結成である。どちらも1917年のロシア革命の後にソビエト政権成立させたボリシェヴィキ、後のソビエト連邦共産党と、これを中心として1919年設立されコミンテルンの強い影響下にあり、国際共産主義組織の中ではそれぞれ中国支部日本支部として位置付けられていた。 当時中国では日本自国圧迫する列強一つ認識されてはいたものの、欧米先進思想を知る重要な窓口でもあり、中国知識人階級日本留学経験がある者は多かった結党大会である中国共産党第一次全国代表大会では董必武周仏海など中国人代表者13人中4人を日本留学経験者占めたほか、この他にも陳独秀李大釗など多く重要人物日本留学経験していた。 中国国民党指導者である孫文が「容共連ソ」でソ連接近したこともあって1924年には第一次国共合作成立し陳独秀らは共産党員のまま国民党参加した。この合作国民党右派蒋介石による上海クーデターきっかけ崩れ1927年最終的に崩壊して国共内戦入ったが、その後中国共産党国内での勢力着実に伸ばしたその中で党内では後に「毛沢東思想」とまとめられる独自の農村革命論掲げた国内組の毛沢東実権掌握し1937年からの日中戦争では第二次国共合作の下で組織され共産党軍組織八路軍などが主に華北日本軍戦った一方、「22年テーゼ」のように党綱領君主制廃止、すなわち天皇制廃止定めていた日本共産党政府との協力可能性はなく、中国への侵略反対唱えた時期通じて当局からの取り締まりおよび党内における路線対立結果1930年代後半には国内組織がほぼ完全に壊滅した一方でコミンテルン指示モスクワ滞在していた野坂参三1940年中国共産党解放区中心となっていた延安移り日本人民解放連盟などで日本軍兵士への反戦宣伝活動捕虜への共産主義教育行った。これによって日本共産党戦後の活動再開可能性中国残したが、一方では自らの綱領中国共産党意向強く影響される構造作った

※この「戦前の日中共産党の関係」の解説は、「日中共産党の関係」の解説の一部です。
「戦前の日中共産党の関係」を含む「日中共産党の関係」の記事については、「日中共産党の関係」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦前の日中共産党の関係」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦前の日中共産党の関係」の関連用語

戦前の日中共産党の関係のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦前の日中共産党の関係のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日中共産党の関係 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS