戦前の日中共産党の関係
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「日中共産党の関係」の記事における「戦前の日中共産党の関係」の解説
中国共産党は1921年、日本共産党は1922年と、アジア地域の中ではどちらも最初期の結成である。どちらも1917年のロシア革命の後にソビエト政権を成立させたボリシェヴィキ、後のソビエト連邦共産党と、これを中心として1919年に設立されたコミンテルンの強い影響下にあり、国際共産主義組織の中ではそれぞれ中国支部、日本支部として位置付けられていた。 当時の中国では日本は自国を圧迫する列強の一つと認識されてはいたものの、欧米の先進思想を知る重要な窓口でもあり、中国の知識人階級に日本留学経験がある者は多かった。結党大会である中国共産党第一次全国代表大会では董必武や周仏海など中国人代表者13人中4人を日本留学経験者が占めたほか、この他にも陳独秀や李大釗など多くの重要人物が日本留学を経験していた。 中国国民党の指導者である孫文が「容共連ソ」でソ連に接近したこともあって1924年には第一次国共合作が成立し、陳独秀らは共産党員のまま国民党に参加した。この合作は国民党右派の蒋介石による上海クーデターをきっかけに崩れ、1927年に最終的に崩壊して国共内戦に入ったが、その後も中国共産党は国内での勢力を着実に伸ばした。 その中で党内では後に「毛沢東思想」とまとめられる独自の農村革命論を掲げた国内組の毛沢東が実権を掌握し、1937年からの日中戦争では第二次国共合作の下で組織された共産党軍事組織の八路軍などが主に華北で日本軍と戦った。 一方、「22年テーゼ」のように党綱領で君主制廃止、すなわち天皇制の廃止を定めていた日本共産党に政府との協力の可能性はなく、中国への侵略反対を唱えた各時期を通じて当局からの取り締まりおよび党内における路線対立の結果、1930年代後半には国内組織がほぼ完全に壊滅した。 一方でコミンテルンの指示でモスクワに滞在していた野坂参三は1940年に中国共産党の解放区の中心となっていた延安へ移り、日本人民解放連盟などで日本軍兵士への反戦宣伝活動や捕虜への共産主義教育を行った。これによって日本共産党は戦後の活動再開の可能性を中国で残したが、一方では自らの綱領に中国共産党の意向が強く影響される構造を作った。
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