成立経緯と史料的評価
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『甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』と略記)の成立は、『軍鑑』によれば天正3年(1575年)5月から天正5年(1577年)で、天正14年(1586年)5月の日付で終っている。甲陽軍鑑の成立時期は武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあたり、『軍鑑』に拠れば信玄・勝頼期の武田家臣である高坂弾正昌信(春日虎綱、以後「虎綱」と記述する)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。 虎綱は天正6年に死亡するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後、天正13年に亡命先の佐渡島において没するまで執筆を引き継いでいる。翌天正14年にはこの原本を虎綱の部下であった「小幡下野守」が入手し後補と署名を添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本が近世に刊行されたものであると考えられている。 さらに、これを武田家の足軽大将であった小幡昌盛の子景憲が入手しさらに手を加えて成立したものと考えられており、『軍鑑』の原本は存在していないが、元和7年の小幡景憲写本本が最古写本として残されている。景憲は『軍鑑』を教典とした甲州流軍学を創始し幕府をはじめとした諸大名家に受け入れられており、この頃には本阿弥光悦ら同時代人も『軍鑑』に触れたことを記している。 『軍鑑』は、近世には武家のみならず庶民の間でも流布する一方、江戸時代から合戦の誤りなどが指摘されていた。肥前平戸藩主の松浦鎮信の著で、元禄9年(1696年)頃の成立の『武功雑記』によると、山本勘介の子供が学のある僧となり、父の事跡を虎綱の作と偽り『甲陽軍鑑』と名付けた創作と断じている。湯浅常山の『常山紀談』にも、「『甲陽軍鑑』虚妄多き事」と記述されている。 明治時代以降は実証主義歴史学が主流となり、実証性が重視される近代歴史学においては『太平記』『太閤記』などの編纂物と同様に、基礎的事実や年紀の誤りから歴史研究の史料としての価値が否定され、景憲が虎綱の名を借りて偽作したものであると見なされるようになった。代表的な論文は、1891年(明治24年)には田中義成「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)である。この論文において、文書や記録資料との比較から大きな誤りが多いと指摘し、甲陽軍鑑は高坂弾正(春日虎綱)の著作ではなく江戸初期に小幡景憲が武田遺臣の取材をもとに記した記録物語であるとした。戦後の実証的武田氏研究においても、文書や『高白斎記(甲陽日記)』『勝山記』ら他の記録資料や対照からも誤りが多いことが指摘されていた。 一方で、『日本国語大辞典』などの国語辞典類や武家故実の基本的参考書とされる『武家名目抄』では、『軍鑑』の語彙・語句が数多く採用されている。また、日本の倫理思想史では「武士道」の初出史料として知られ、戦国時代に形成された武士の思想を江戸初期に集大成した武士の心組みを知るために欠くことのできない文献だと評価し、日本史学との扱いの差を見ることができる。
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