成立経緯と史料的評価とは? わかりやすく解説

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成立経緯と史料的評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:59 UTC 版)

甲陽軍鑑」の記事における「成立経緯と史料的評価」の解説

甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』と略記)の成立は、『軍鑑』によれば天正3年1575年5月から天正5年1577年)で、天正14年1586年5月日付終っている。甲陽軍鑑成立時期は武田家重臣数多く戦死した長篠の戦い直前にあたり、『軍鑑』に拠れば信玄・勝頼期の武田家臣である高坂弾正昌信春日虎綱以後「虎綱」と記述する)が武田家行く末危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎春日家大蔵十郎らが虎綱の口述書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。 虎綱は天正6年死亡するが、春日惣次郎武田氏滅亡後天正13年亡命先佐渡島において没するまで執筆引き継いでいる。翌天正14年にはこの原本を虎綱の部下であった小幡下野守」が入手し後補と署名添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後上杉家仕えた小幡光盛あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本近世刊行されたものである考えられている。 さらに、これを武田家足軽大将であった小幡昌盛の子景憲が入手しさらに手を加えて成立したものと考えられており、『軍鑑』の原本存在していないが、元和7年小幡景憲写本本が最古写本として残されている。景憲は『軍鑑』を教典とした甲州流軍学創始し幕府をはじめとした諸大名家に受け入れられており、この頃には本阿弥光悦同時代人も『軍鑑』に触れたことを記している。 『軍鑑』は、近世には武家のみならず庶民の間でも流布する一方江戸時代から合戦誤りなどが指摘されていた。肥前平戸藩主の松浦鎮信の著で、元禄9年1696年)頃の成立の『武功雑記』によると、山本勘介の子供が学のある僧となり、父の事跡を虎綱の作と偽り甲陽軍鑑』と名付けた創作断じている。湯浅常山の『常山紀談』にも、「『甲陽軍鑑虚妄多き事」と記述されている。 明治時代以降実証主義歴史学主流となり、実証性が重視される近代歴史学においては『太平記』『太閤記』などの編纂物同様に基礎的事実年紀誤りから歴史研究史料としての価値否定され、景憲が虎綱の名を借りて偽作したものであると見なされるようになった代表的な論文は、1891年明治24年)には田中義成甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号史学雑誌)である。この論文において、文書記録資料との比較から大きな誤りが多いと指摘し甲陽軍鑑高坂弾正春日虎綱)の著作ではなく江戸初期小幡景憲武田遺臣取材をもとに記した記録物語であるとした。戦後実証的武田氏研究においても、文書や『高白斎記甲陽日記)』『勝山記』ら他の記録資料対照からも誤りが多いことが指摘されていた。 一方で、『日本国語大辞典』などの国語辞典類や武家故実基本的参考書とされる武家名目抄』では、『軍鑑』の語彙語句数多く採用されている。また、日本倫理思想史では「武士道」の初出史料として知られ戦国時代形成され武士の思想江戸初期集大成した武士の心組みを知るために欠くことのできない文献だと評価し日本史学との扱いの差を見ることができる。

※この「成立経緯と史料的評価」の解説は、「甲陽軍鑑」の解説の一部です。
「成立経緯と史料的評価」を含む「甲陽軍鑑」の記事については、「甲陽軍鑑」の概要を参照ください。

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