憲法研究と改正への熱意
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1950年5月第2回参議院議員通常選挙の全国区に自由党から出馬する。参議院事務総長退官後は「二年半の(参議院事務総長)体験に徹し、日本国憲法の精神が国民の間に理解されて居ないことが判ったので、日本民族将来のため、余生を国民の政治教育に捧げようと決心」していたが、周囲の勧めがあり議員選挙へ出馬したという。所属政党については、小林が貴族院議員に勅選された当時の内閣書記官次田大三郎から社会党入党を勧告されていたが、親任官待遇を賜ったとき(1946年12月5日)の首相吉田茂の誘いがあり自由党を選んだという。しかし小林の意気込みに反して選挙の実際は金と違反がまかり通る世界。であった。そのうえ党本部の支援も不十分で、小林は11万票余りの得票で落選。小林はこのままでは選挙法を改正しないかぎり良識的な候補者を苦しめるだけであると憤慨している。 ついで1953年4月第3回参議院通常選挙に長野地方区から出馬して落選した。国政参加への再度の挑戦の背景には、日本国憲法の制定に関与した者の一人として、その内容の不十分を国政の場で自ら提起し、正してゆきたいという強い思いがあったからであった。2回目の落選のあと小林を世話人として主に旧貴族院で日本国憲法制定に関与した勅選および学士院会員議員の有志を集め憲法問題を研究する「月曜会」を発足。毎月第一・第三月曜に例会日とし、河井彌八参議院議長の協力を得て議長公邸を会場とし参議院の速記者と罫紙を使用した半公式的な性格の研究会として活動した。研究会はa)日本国憲法制定の経緯の記録、b)日本国憲法の解釈論(問題点の検討)、c)改正案の作成の3点を主たる目的とし、政党の意見や世論を超越して健全な改正案を将来の参考のために残そうとするものであった。 1956年7月第4回参議院議員通常選挙全国区で自由民主党から三たび出馬するが落選。同時に河井彌八も落選したことで参議院議長としての河井の支援を期待することが出来なくなったことから、月曜会で従来のように参議院の速記者を使用することや、議長公邸を使用したりすることが困難になった。そこで1958年3月10日「月曜会」を改組して「萍憲法研究会」とし、その初回にそれまで検討された内容を「日本国憲法萍研究会草案」(実態は小林による試案)としてまとめた。萍憲法研究会は1959年10月ころまでは活動したが、主要参加者が次第に死去するなどして自然消滅した。なおこの月曜会・萍憲法研究会の活動速記録は日本国憲法の制定過程の裏側がわかる貴重な資料であり、2010年に参議院の保管棚から偶然発見され、2014年に翻刻、公刊された。
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