弥生・古墳時代
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拠点集落の中心的な建物に用いる点では縄文時代と同様である。一般集落の住居としての主流は依然竪穴住居であり、これは古代末の11世紀まで続く。 弥生時代は、魏志倭人伝の記録を待つまでもなく、堀(防御施設)でムラ全体を囲む環濠集落の祭祀建築(祭殿)の大型化をもたらしたことや当時の一種の山城である高地性集落などの遺構、あるいは遺物など考古資料の面でも戦争の多い時代だったことが知られる。稲作農耕の本格的な進展は水利権や余剰農産物をめぐる争いを招いたものと思われるが、そうした時代状況を反映して、この時期の掘立柱建物には軍事的性格を帯びる建物や倉庫的使用のなされた建物(高床倉庫・高床住居など)が増加したものとみられる。著名なものとしては、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡出土の土器に描かれた多層式の楼閣がある。これは偶然絵に描かれていたからこそ、同様の建物が存在しただろうという推定が可能となるが、通常は発掘調査における遺構の検出からは上屋構造までは推定できない。佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡の掘立柱建物跡もその立地などから考慮して物見櫓であることが確実視され、今日では遺跡公園内に復元されている。 古墳時代に入ると、クニとしてのまとまりと豪族相互の序列ができあがってきて、戦争は激減し、集落における軍事的要素は薄まるが、一方で建物が豪族の威容を示すものとして積極的に利用されたことはむしろ増加したと考えられる。いわゆる豪族居館とよばれる遺構がそれであり、群馬県高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡・北谷遺跡の調査例などが知られる。ここでは居住空間(私的空間)と祭祀の場もしくは首長による政治の場(公的空間)とがきちんと区画されていたことが確認されており、また、3km離れた両遺跡が規模・形状ともにまるで同じ設計図をもとに構築されたかのように酷似していることは特に注目に値する。なお、埼玉古墳群(埼玉県行田市)などから発見された家形埴輪には鰹木(かつおぎ)を乗せた入母屋造の家、寄棟造の家、円柱表現の高床倉庫などがあり、上屋構造を推定するうえで大きな手がかりとなっている。
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弥生・古墳時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)
4 - 5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器(奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。 この時代、沖縄、先島と並んで奄美群島の島々もゴホウラやイモガイの貝殻を交易品とし、本土側は土器(弥生土器か)と交換していた(「貝の道」の交易)。九州では貝殻を装身具として使用していた。弥生時代前期(約2300年前)の鹿児島の高橋貝塚(南さつま市、阿多郷)からは貝輪の加工品が出土しており、貝の道の交易の一端を担ったと考えられている。
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