建設の経緯と役割
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三浦ダム貯水池が広がる場所は、元は王滝村のうち「三浦平」と呼ばれる盆地であった。この盆地で「本谷」「五味沢」「水無瀬沢」「土浦沢」の4支流が集まって王滝川となるが、三浦ダムは盆地の出口部分にあり、川の流れを堰き止めている。 三浦ダム建設を計画したのは、大正・昭和戦前期に木曽川で電源開発を手掛けた大手電力会社大同電力である。同社は1932年(昭和7年)8月に、貯水池設置ならびに工事実施の許認可を得て、1935年(昭和10年)10月に起工式を挙行した。この大同電力は、木曽川にて大井発電所など水力発電所を相次いで建設していたが、これらは河川の平水量(6か月流量)前後を使用水量とする関係上、渇水期には発電力が減退する。これを補うためには火力発電設備が必須であった。三浦ダム貯水池はこの欠点を緩和すべく計画されたもので、豊水期の余水や洪水を渇水期に向けて貯留する役割を担うものとされた。 工事にあたり、電源として下流側の木曽福島から28キロメートルの工事用送電線が架設され、セメントや骨材の運搬用には岐阜県側の下呂から三浦まで14.8キロメートルの索道が架設された。また重量物や従業員などの輸送には上松駅から伸びる既設森林鉄道が活用された。1939年(昭和14年)4月、未完成のまま工事は日本発送電へと引き継がれる。この段階では堤体コンクリートの打設作業が始まったところであった。工事は電源送電線の故障続出が原因で停滞したが、岐阜県側の竹原川発電所から送電線を架設するという電源二重化の対策をとると円滑になり、1941年度には1日1,200立方メートルの速さで打設作業が進んだ。その結果、工期は予定より3か月短縮され、三浦ダムは1942年(昭和17年)10月8日湛水開始に至った。 こうして完成した三浦ダムは、基礎岩盤上高さ(堤高)83.2メートル、長さ(堤頂長)290.0メートル、体積(堤体積)50万7,000立方メートルの重力式コンクリートダムである。2門の洪水吐ゲート(ローラーゲート、元はラジアルゲート)が右岸にあるが、ダムの大部分が非越流部で占められる。ダムによって形成される貯水池の湛水面積は2.8平方キロメートルで、その総貯水容量は6221万5700立方メートル、うち利用水深47.0メートル以内の有効貯水容量は6160万立方メートルに及ぶ(数字は2008年3月末時点)。ダムに付属して半円型の取水塔があり、ここに放水管2本・排水管1本と発電所水圧鉄管が接続する。 ダムの運用は、毎年12月から発電を行いつつ水位を下げ始め、翌年3月半ばに水位を0メートルとし、そこから雪解けの出水を貯留していくというパターンで行われる。こうして冬の渇水期に放水することで、ダム建設時の計算では、最大水量(17.50立方メートル毎秒)の場合において下流発電所の出力を12万3,290キロワット、年間発電量換算で2億871万キロワット時も増強できるものとされた。
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