建設の背景と上十三川橋梁とは? わかりやすく解説

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建設の背景と上十三川橋梁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 10:07 UTC 版)

上淀川橋梁」の記事における「建設の背景と上十三川橋梁」の解説

日本政府は、日本最初の蒸気機関車による鉄道として新橋-横浜間の鉄道着手したのに続き、すぐに神戸-京都間にも鉄道敷設するように事業進めていた。このうち京都-大阪間については、大阪から吹田までまっすぐ直行する案と、大阪-神戸間線路戻って神崎尼崎)から淀川北岸通って京都に向かう案があり、前者後者より費用は高いと見積もられたがその差は小さく前者の方が距離が短くなることから、前者の案が採用された。 明治初頭時点で、淀川の河口付近は、神崎川中津川十三川)、大川旧淀川)の三川分かれており、川幅狭く流路曲がりくねっていた。大阪から吹田直行する案が採用されたことで、神戸-大阪間の鉄道渡った神崎川中津川を、上流側再度渡ることになった東海道本線がこれらの川を2回渡ることから、それぞれ「上」「下」を冠した橋梁名付けられることになり、上十三橋梁架設されることになった神戸-大阪間を建設した際には、まだ一部橋梁トラス錬鉄製作したのみで、他には木製架設していた。しかし大阪-京都間では、短い溝に架かる橋以外はすべて鉄製となった。上十三橋梁は、下十三橋梁同じく錬鉄製のトラス橋とされ、同じくお雇い外国人イギリス人であるジョン・イングランドが設計してイギリス会社製作された。トラス支間は、下十三川の時に70フィート(約21.3メートルであったのが、上十三橋梁では100フィート(約30.3メートルとなった。これを5連連ねて全長500フィート(約152メートル)とした。総工費109,187であった1876年明治9年7月28日大阪 - 向日町間が開通して供用開始した。この区間1899年明治32年2月3日複線化されたが、複線化に際して十三橋梁どのように改築されたかははっきりしない1885年明治18年)に起きた淀川の大洪水きっかけに、淀川下流部放水路建設することになり、これに伴って中津川十三川)は廃河川となり、上十三橋梁撤去された。撤去1901年明治34年)頃である。上十三橋梁でも使われていたイギリス100フィートトラスは、大きさ手ごろ撤去され時期地方私鉄の発展していく時期当たったことなどから、各地転用されていった。しかし、上十三橋梁トラス転用された先は明らかではない。 上十三橋梁使用され100フィートポニーワーレンの図 上十三橋梁使われたのと同じイギリス100フィート錬鉄ポニーワーレン長野電鉄松川橋として1990年まで使用されいたもの

※この「建設の背景と上十三川橋梁」の解説は、「上淀川橋梁」の解説の一部です。
「建設の背景と上十三川橋梁」を含む「上淀川橋梁」の記事については、「上淀川橋梁」の概要を参照ください。

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