市制以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:18 UTC 版)
伊予国最大の荘園である宇和莊に含まれていたとの説もあるが未詳。古くは板島と呼称されていた。古代伊予の豪族越智氏の祖といわれる伊但馬に由来するとの伝承がある。 板島と云事、孝元天皇の御弟伊豫皇子~(中略)此の御子を當国へ下し給ふによって、西南藩屏将軍と云、此三男を小千御子と云、越智郡に居住せり、夫より6代目を伊但馬と云、當国西南土佐界に御館有、故に居處を持って名とすと豫章記に見えたるよし(宇和旧記 板島殿之事) 律令時代の宇和郡には石野・石城・立間・三間の4郷が置かれており、旧三間町の領域を除く宇和島市の地域は立間郷に属していた。この立間郷は徐々に開発が進み、新しい郷が設置され、鎌倉時代には旧立間郷に小立間が起こり、また岩松・岩藤・清光の津島三郷が起こっている。この頃に来村郷も成立したとみられている。 936年(承平6年) -藤原純友が沖合の日振島を拠点に海賊の頭目になったとされる 941年(天慶4年) - 警固使である橘遠保により、宇和島に砦が建設される。 1203年(建仁3年) - 西園寺公経が伊予国の知行国主となる。 1236年(嘉禎2年) - 橘公業の宇和郡地頭職が停止される。 室町時代中期 - 松葉城の西園寺家支流である西園寺公広が宇和莊の代官に補任され来村領内の開発にあたり、この西園寺家支流の家が来村殿と称される。 1585年(天正13年) - 豊臣秀吉の四国攻めにより、伊予国は小早川隆景の所領となる。養子秀包に南伊予支配を当たらせ、隆景家臣の持田右京が板島丸串城の城代を務めた。 1587年(天正15年) - 隆景が筑前国に転封となり、代わって伊予大洲十万石を拝領し大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が板島丸串城の城代となった。 1595年(文禄4年) - 藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。板島を宇和島と改める。 1596年(慶長元年) - 藤堂高虎が板島丸串城の地に本格的な築城工事を開始。 1601年(慶長6年) - 藤堂高虎により宇和島城が築城される。 1608年(慶長13年) - 伊勢安濃津五万石城主の富田信高が宇和郡十万石を拝領し板島丸串城主となる。 1613年(慶長18年)- 富田信高が改易となり、幕府直轄領となった宇和郡の代官として藤堂良勝が再び板島丸串城に入城する。 1614年(慶長19年) - 伊達秀宗が、大坂の陣の功により10万石を与えられる。秀忠は秀宗を国持大名格とし「西国の伊達、東国の伊達と相并ぶ」よう賞した。 1615年(慶長20年) 宇和島城に入城。以後、江戸時代を通じて、仙台藩伊達家の別家である宇和島伊達家が9代に渡り統治した。 幕末になると、宇和島藩は政局で重要な立場を担った。幕末には、シーボルトの直弟子で宇和郡卯之町(現・西予市宇和町)の医者二宮敬作、二宮敬作が紹介した高野長英、村田蔵六(後の大村益次郎)といった人物が滞在し宇和島の近代化に貢献した。 1889年(明治22年) - 町村制の施行で宇和島町となる。 1914年(大正3年)10月18日 - 宇和島鉄道の駅として宇和島駅開業、宇和島(正確には北宇和郡八幡村地内) - 近永間の運転始まる。 1917年(大正6年) - 丸穂村を編入。
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