左翼反対派の活動 -『階級闘争』、『ラ・ヴェリテ』
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「ピエール・ナヴィル」の記事における「左翼反対派の活動 -『階級闘争』、『ラ・ヴェリテ』」の解説
トロツキーは1925年に解任され、1929年に国外追放された。ナヴィルはフランス共産党の雑誌・新聞が政治の実情を歪めて報道していると非難し、セルジュとの連名で、ソ連の経済管理、市民生活の管理の実情を報告し、ローゼンタールとの連名で、「共産主義者へ、革命的労働者へ、我々の証言」と題する記事をスヴァーリン創刊の『共産主義会報(Bulletin communiste)』、モーリス・パズ(フランス語版)創刊の『流れに逆らって(Contre le courant)』、『レーニン主義組織(Unité léniniste)』誌などに発表。さらに『流れに逆らって』誌にソ連訪問の報告書を掲載し、パズらのグループの公開会議に参加するなど積極的な活動を展開した。この結果、ナヴィルは1928年2月に共産党を除名され、新たに『クラルテ』誌の後続誌『階級闘争(la Lutte de classes)』を創刊した。 さらにスヴァーリンのマルクス・レーニン共産主義サークルとともに新組織「カマラード(同志)」を結成しようとしたが果たせず、そこで、トルコのプリンスィズ諸島プリンキポ島(ビュユック島)で再会したトロツキーの助言に従って次の雑誌『ラ・ヴェリテ(真実)』を創刊。アンリ・モリニエ(フランス語版)、レイモン・モリニエ(フランス語版)の兄弟、アルフレッド・ロスメル(フランス語版)、および『階級闘争』の寄稿者らが参加した。トロツキーと頻繁に連絡を取っていたナヴィルは、左翼反対派の発展のために尽力し、1930年3月にドイツ合同左翼反対派の結成に協力。同年4月に左翼反対派の最初の国際会議の開催のために尽力し、国際事務局のアルフレッド・ロスメルの代理に選出された。だが、労働のあり方や労働組合の問題で意見対立が生じ、レイモン・モリニエと対立。モリニエを支持したトロツキーに批判されるが、以後もフランス国内外の左翼反対派の推進に尽力した。 しばらくは小規模な共産主義組織の結成を試みたが、1933年にトロツキーに説得されてフランス社会党(労働インターナショナル・フランス支部、SFIO)に参加。『ラ・ヴェリテ』は社会党内の「ボリシェヴィキ・レーニン主義グループ(GBL)」の機関紙となり、ナヴィルはグループの中央委員会に参加したが、社会党が共産党との統一戦線を結成した後、1935年10月にボリシェヴィキ・レーニン主義グループが解体され、トロツキストの影響力が失われると同時に、内部対立につながった。だが、1936年には、ボリシェヴィキ・レーニン主義グループが結成した革命労働党(PUR)と、ナヴィル、ジャン・ルー(フランス語版)、イヴァン・クレポー(フランス語版)らが結成した革命社会主義青年(フランス語版)が国際主義共産党の指導者らと合意に達し、6月2日に国際主義労働党(POI)が結成された。ナヴィルは以後、同党の指導者の一人として、新たに党の機関紙となった『労働闘争』の編集を中心に積極的な活動を展開し、左派を結集した人民戦線の政策すら批判し、「革命プロレタリア戦線」の結成を呼びかけた。 1938年、ローゼンタール宅でソ連のスパイでフランスに亡命していたウォルター・クリヴィツキーと、同じくソ連のスパイで前年、ローザンヌで内務人民委員部に暗殺されたイグナス・ポレツキー(フランス語版)の妻エリザベート・ポレツキーに出会った。同年、ドイツからフランスに亡命し、国際共産主義連合の組織委員会書記であったルドルフ・クレメント(フランス語版)のものと思われる遺体が発見された。頭部はなかった。ナヴィルはクレメントのものと証言したが、共産党は『リュマニテ』紙上でこれを否定。現在では国家政治保安部によって暗殺されたものとされている。フランスだけでなく、スペイン、イタリア、オーストリアなどでも国家政治保安部によるトロツキストの誘拐・暗殺が相次ぎ、ナヴィルは第四インターナショナルの会報でこれを厳しく糾弾した。
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