左翼・社会主義
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学習院大学時代に社会主義や共産主義などの左翼運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。実際に高畑勲らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら資本論などの理論書は読んでいないと率直に述べている。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。希望ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている。ただし後年に「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や、「今はプロレタリアートがいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている。 思想転向があったとする評価 その後も左翼的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期の1989年に起きた天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある。 思想転向はしていないという評価 しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的なソ連型社会主義には懐疑的で、ソ連や中国の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカも嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している。ニューヨーク近代美術館での会見で中国の毛沢東の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている。冷戦崩壊直前の1990年11月にはソ連と対峙するラトビアの独立運動で「人民戦線」という用語が使用されている事に触れながら、「社会主義が自由主義っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。西ドイツの現状はどうなんですか?西ベルリンが健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きたユーゴスラビア紛争に触れ、民主化による民族主義の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の赤になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している。 宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている。 2008年の講演で、日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した。一方で、「世界の問題は多民族にある」とも述べている。
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