左翼・反体制思想とは? わかりやすく解説

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左翼・反体制思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:31 UTC 版)

パブロ・ピカソ」の記事における「左翼・反体制思想」の解説

第一次世界大戦スペイン内戦第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソ積極的に関わらなかった。フランス2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソ招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソフランコファシズム対す怒り作品表現したが、スペイン帰国して共和国市民軍身を投じることはしなかった。 ピカソ青年時代にも、カタルーニャ独立運動のメンバーたちと付き合ったが、結局運動には参加しなかったという経歴がある。 スペイン内戦中1937年バスク地方小都市ゲルニカフランコ依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多く死傷者出した。この事件モチーフに、ピカソ有名なゲルニカ』を制作した死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救い求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象与える縦3.5m・横7.8mのモノトーン大作であり、同年パリ万国博覧会スペイン館で公開された。ピカソはのちにパリ占領したドイツ国防軍将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え同作品の絵葉書土産として持たせたという。 スペイン内戦フランコファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカニューヨーク近代美術館預けられていたが、ピカソフランコがともに没し王政復古スペインの民主化進んだ1981年遺族アメリカ政府決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードソフィア王妃芸術センター展示されている。 1940年パリナチス・ドイツ占領され、親独派政権ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソパリとどまった。このことが戦後ピカソ名声高め要因になった多く芸術家たちが当時アメリカ合衆国移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権ピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエ制作して過ごしたヴィシー政権資源不足を理由ブロンズ塑像制作禁止したが、レジスタンス地下抵抗組織)が密かにピカソ材料提供したので、制作続けることができた。

※この「左翼・反体制思想」の解説は、「パブロ・ピカソ」の解説の一部です。
「左翼・反体制思想」を含む「パブロ・ピカソ」の記事については、「パブロ・ピカソ」の概要を参照ください。

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