連携解消から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 06:45 UTC 版)
「独立労働党」の記事における「連携解消から第二次世界大戦まで」の解説
1931年の総選挙ではILP系候補が議会労働党の指示を受け入れず、同党への支援を公式に取り止める事となる。ILPの党員5名が労働党外でILPのグループを結成。1932年には特別会議を開き、投票の結果、労働党との連携解消を打ち出す。 同年、左翼社会主義政党の「ロンドン支部」を共同で設立。後に国際革命的マルクス主義センター(第三半インターナショナル)と呼ばれるこの組織は、ILPが運営し同党のフェンナー・ブロックウェイが議長を務める事となる。 労働党左派に属するエナイリン・ベヴァンはILPの連携解消を「高潔ではあるが無意味」な決定と評するが、暫くして労働党外でのILPの政治的影響力が衰微すると、その批判が的中。なお、労働党内に留まる事を選択したILPの党員もおり、社会主義同盟創設の際、重要な役割を果たした。 連携解消はILPの党勢に壊滅的な影響を与える事となる。1932年に16773名を数えた党員は、1935年に4392名となり、ほんの3年間で党員の75%が離党するに至っている。1934年には独立社会党結党のため、離党が相次ぐ。 残った党員は若く急進的となる傾向にあった。就中スペイン内戦では25名の党員とジョージ・オーウェルらそのシンパが、共和国側を支持して参戦。 1939年には労働党の政策に「良心的に反対」しているにも関わらず、同党へ再合流を求める私信を出す。労働党はこれを一蹴し、再合流の条件はILPによって撤回され得るとした。
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