州知事辞任後の活動
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「マーサ・レイン・コリンズ」の記事における「州知事辞任後の活動」の解説
コリンズの任期は1987年12月8日に明け、当時のケンタッキー州憲法の規定に従い、連続した任期に州知事を務められなかった。1988年、ルイビル大学で「居住役員」の地位を受け入れ、大学の経営学科の学生に客員講演を行った。レキシントンでは国際貿易コンサルティング会社も興した。西ケンタッキー大学学長のカーン・アレクサンダーが1988年にバージニア工科大学の地位を受け入れるために学長を辞任したとき、コリンズはその後継者最終候補4人に入っていた。コリンズが学術分野で経験がないことに懸念を表明する教授会メンバーもいた。コリンズは新しい学長が発表される直前に、検討対象者から身を引いた。 コリンズはルイビル大学で1年間の契約を満たした後、ハーバード大学ジョン・F・ケネディ政治学大学院のフェローに指名され、1週間に1度、リーダーシップ・スタイルに関する選択科目の授業を行った。このハーバードの仕事と同時期に、1989年にはミッドウェイ・カレッジの理事に指名された。翌年南部バプテスト神学校の理事からは外された。その解任は1986年から1989年までコリンズが3年連続して理事会を欠席したために、自動的に行われたことだった。1990年コリンズはスプリングフィールドのセントキャサリン・カレッジ学長を引き受け、この小さなカトリック系カレッジでは、ドミニコ会修道女ではない初の女性学長となった。このカレッジの役員は、カレッジの評判を上げるためにコリンズが学長に雇われたと言っていた。 1993年、コリンズの夫ビルが斡旋収賄容疑で告発された。検察はコリンズが州知事である間に、ビルがその妻を通じて州の契約を与えることに影響を及ぼすことができるという概念を行使したというものだった。ビルは州と取引を行う者に200万ドル近い投資を自分に行うよう圧力をかけて、この概念を行使したとされた。ビルは7週間の審問を受けた後の1993年10月14日に有罪となり、連邦刑務所での5年3ヶ月の禁固を宣告されたが、連邦法量刑のガイドラインでは最短期間のものだった。また政治献金と見せかけてリベートを要求したことでも、謀略を問われ、20,000ドルの科料を払わされた。コリンズは裁判で証言のために召喚されたが、告訴はなかった。しかしこのスキャンダルはコリンズの評判を損ない、ビル・クリントン大統領から閣僚に指名されるチャンスを損なった可能性がある。コリンズはアメリカ合衆国上院議員選挙に出馬するという噂もあったが、夫が有罪になった後は現実のものにならなかった。1997年10月10日に夫のビルが刑務所から釈放された後は、コリンズ家が再度1つに纏まった。 1996年、コリンズはセントキャサリン・カレッジ学長を辞任し、ケンタッキー大学国際事業管理センターを指導するようになった。同年後半、1996年民主党全国大会の資格審査委員会を共同主宰した。ケンタッキー大学との契約が1998年に切れると、ジョージタウン・カレッジで非常勤「居住執行学者」の地位を受けたので、他のことを追求する時間ができた。1999年、ケンタッキー州の日本名誉総領事の指名を受けた。この職はケンタッキー州における日本の関心を高め、州内への日本の投資を促し、ケンタッキー州と日本の間で文化的理解を高めるものである。2001年、ポール・E・パットン知事がコリンズを、ケンタッキー州経済状態に関する女性のタスクフォースの共同主宰者に指名した。2005年1月、ケンタッキー州世界貿易センターの議長とCEOになった。その他イーストマン・コダックなど企業数社の取締役も務めている。
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