山中正吉家の歴史
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「近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」」の記事における「山中正吉家の歴史」の解説
山中正吉家は近江国蒲生郡西大路村(現・滋賀県蒲生郡日野町西大路)出身の日野商人であり、駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)で酒造業や醤油醸造業を営んでいた。 2代目山中兵右衛門の次男として山中与兵衛がおり、山中与兵衛の八男として文化6年(1809年)に初代山中正吉が生まれた。したがって山中正吉家は山中兵右衛門家の分家筋にあたる。文政年間(1818年~1830年)、初代山中正吉は駿河国富士郡天間村(現・静岡県富士市)で酒造業を始めたが、その後店舗を閉鎖している。天保元年(1830年)には立宿にある鈴木藤右衛門の養子という形をとり、鈴木藤右衛門から酒株と店舗を借りて、富士郡大宮町(現・富士宮市)に鈴木正吉商店(現在の富士高砂酒造)を興した。 安政3年(1856年)、初代山中正吉は鈴木藤右衛門から酒株や酒庫を買い取り、屋号を中屋に改めた。万延元年(1860年)には初代山中正吉が仁正寺藩から土地を拝領したことで、幕末には出身地である日野に山中正吉家の主屋が建設された。中屋は酒・焼酎・醤油・味噌・酢を製造・販売し、1875年(明治8年)には富士郡今泉村(現・富士市)にも店舗を構えた。初代山中正吉は絵画をたしなみ、筑前四大画家のひとり・村田東圃を師としていた。「英輝」「松韻」などの号で多くの作品を残し、1884年(明治17年)の第2回内国絵画共進会では褒状を授与されており、宮内庁に買い上げられた際の代金を元にして18本の石橋を架けたとされる。 1879年(明治12年)には2代目山中正吉が家督を継ぎ、2代目山中正吉は1893年(明治26年)に富士郡大宮町阿幸地字欠畑(現・富士宮市)に欠畑酒店を構えた。2代目山中正吉は富士山本宮浅間大社と関わりが深く、日野の馬見岡綿向神社に富士山本宮浅間神社を勧請するなどしている。明治期の廃仏毀釈で富士山山頂に祀られていた仏像が廃棄されそうになった際、2代目山中正吉は仏像8体を譲り受けて匿い、中屋本店の酒蔵(現在の薬師蔵)に安置した。2代目山中正吉は富士馬車鉄道の株主であり、新甲州街道の改修事業においては賛同者となった。 1908年(明治41年)には3代目山中正吉が家督を継ぎ、1910年(明治43年)には富士郡岩松村岩本(現・富士市)に酒造店を構えた。1928年(昭和3年)には小笠郡横須賀町(現・掛川市)にあった大竹酒造を買い取り、1929年に大竹屋山中酒店とすると、3代目山中正吉の次男である山中兵二が分家して大竹屋山中酒店を営み、1954年(昭和29年)には山中酒造(現・遠州山中酒造)となっている。1925年(大正14年)に作られた『静岡県下清酒醸造大角力番附』によると、県下有数の酒造家だった山中正吉家は前頭に列せられた。山中正吉家は大宮で1119石、今泉で938石、加島で923石、阿幸地で799石の計3779石を生産しており、単純な合計値では横綱に列せられた東洋醸造を上回っていた。3代目山中正吉は1919年(大正8年)から1931年(昭和6年)まで滋賀県会議員を3期務め、第21代滋賀県会議長も務めている。また、滋賀県農工銀行頭取などの歴任した。大正時代には西大路曳山格納庫(山倉)が現在地に移転したが、この際には山中正吉家も協力している。1938年(昭和13年)頃には新座敷や洋間などを含めた現在の建物が全面改装された。 1940年(昭和15年)、4代目山中正吉は株式会社蒲生銀行(後に滋賀銀行に吸収)取締役に就任した。 1957年(昭和32年)、5代目山中正吉は滋賀トヨペット株式会社を設立し、社長と会長を務めた。
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