少年時代からバンドデビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:14 UTC 版)
「忌野清志郎」の記事における「少年時代からバンドデビューまで」の解説
東京都中野区出身、国分寺市富士本育ち。みふじ幼稚園を経て国分寺市立第二小学校、国分寺市立第三中学校に通う。小学生時代は漫画に熱中し、自作の漫画を近所に住んでいた吉田竜夫に見てもらったこともあった。清志郎の母親の最初の夫(清志郎の実の父親ではない)は結婚して間もなく戦死しており、母親はのちに再婚して清志郎を生んだが、清志郎が3歳の時に33歳で亡くなった。その後、清志郎は母親の姉である伯母夫婦に養子として引き取られた(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」より)。事実を打ち明けられたのは高校生の時で、実母の顔を知ったのは37歳の時である。中学校時代にエレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「No Names」を結成、音楽活動を始める。 1966年初頭、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(のちの林小和生)、桶田賢一(のちの破廉ケンチ)と共に「The Clover」を結成する。 東京都立日野高等学校に進学。学校に馴染めず、かと言って不良でもなく、物静かな少年であと何日休んだら単位が落ちるかを計算して、サボれるだけサボッていた。「トランジスタ・ラジオ」の中に授業をサボッて屋上でタバコを吸っているという歌詞があるが、これは清志郎の実体験である(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」」より)。同級生に三浦友和がいる。高校時代、清志郎はサイケデリック・ミュージックの流れでビートルズやザ・バンドを聞き込んでいたが、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。その後、バンドの解散/再編(The Clover→「The Remainders of The Clover」→「The Remainders of The Clover Succession」)を繰り返す。 1968年、「R.C.サクセション」結成。 1970年、フォークグループRCサクセションとしてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。 「忌野」という芸名は、テレビアニメ「マイティ・ハーキュリー」で悪役「鉄仮面」登場シーンにおいて、「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションを幼少期に「カッコイイ言葉だな」と感じ、「今わの際」という日本語と掛け合わせて「忌野」と命名した(1995年にゲスト出演した関西テレビ「ノックは無用!」より)。なお、日本に「忌野」という苗字は実在せず、「忌」の字が含まれる苗字は「忌部(いんべ)」しか存在しない。 1972年、シングル「ぼくの好きな先生」がスマッシュヒットしたものの後が続かず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。 その間、清志郎は井上陽水との共作「帰れない二人」「待ちぼうけ」(共に『氷の世界』収録)、かぐや姫への作詞提供「あの唄が想い出せない」(『はじめまして』収録) などの印税で糊口を凌いだ。
※この「少年時代からバンドデビューまで」の解説は、「忌野清志郎」の解説の一部です。
「少年時代からバンドデビューまで」を含む「忌野清志郎」の記事については、「忌野清志郎」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から少年時代からバンドデビューまでを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 少年時代からバンドデビューまでのページへのリンク