少年時代および遊学期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:19 UTC 版)
「ノストラダムス」の記事における「少年時代および遊学期」の解説
ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれた。幼少期には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため、彼が直接教育を施したとは考えられない。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。 ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。 このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。この説は、後にノストラダムスの秘書となったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していないためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。
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