少年時代から挿絵画家となるまで
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「北野恒富」の記事における「少年時代から挿絵画家となるまで」の解説
石川県金沢市十間町で加賀藩士族・北野嘉左衛門の三男として生まれる。本名は富太郎。少年時代から絵を描くことを好み、家にあった掛け軸の絵などを模写して楽しむ。小学校を卒業した明治25年(1892年)、木版書画の版下製作業者の西田助太郎に入門、技術を研修するかたわら南画を学ぶ。それから何人かの木版画彫刻師の門下を転々としたのち、明治30年(1897年)には彫刻師の中山駒太郎に従って北国新報に入るが「画家は都会にあらねば面白からず」との中山の言葉に刺激を受け都会に出ることを決意、10月には中山に書いてもらった伊勢庄太郎や稲野年恒らへの紹介状を携え大阪へ向けて出発する。 大阪ではまず彫刻師の伊勢庄太郎のもとで働いたのち、明治31年(1898年)4月より月岡芳年門下の稲野年恒に入門した。入門後も彫師としての仕事が続くが、明治32年(1899年)には嫌気がさして彫刻道具を橋上から投げ捨てたという。同年11月には月刊新聞「新日本」の小説挿絵を描き、挿絵画家としてのデビューを果たした。この時期には仕事をこなすかたわら洋画の画法の研究にもいそしみ、当時、尾崎紅葉の『金色夜叉』や小杉天外の『魔風恋風』の挿絵を担当して人気を博していた挿絵画家・梶田半古の作品にも触発され、後年の画風の素地が形成されていった。また同時期に野田九浦の知遇も得たが、北野を彼に紹介した信近春城は大阪画壇の組織化を早くから試みていた人物であり、後年北野がとった同様の行動には彼からの影響が窺える。明治34年(1901年)には藤村歌と結婚し、同年10月に大阪新報社に入社、小説挿絵担当となり、翌明治35年(1902年)には長男顕雄が誕生する。顕雄は長じて日本画家の北野以悦となった。
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