少年時代から代用教員時代まで
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「棚橋小虎」の記事における「少年時代から代用教員時代まで」の解説
1889年1月14日、長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)に、旧松本藩士で小学校教員の父・棚橋宣章と母・さゑ(旧松本藩士・関口友忠の娘)の四男として生まれた。名付け親は『信濃の国』の作詞者で、同じく旧松本藩士の浅井洌で、「風を切って千里を走る大虎も生るる時は小虎なりけり」という歌を添えて命名した。 1899年3月に東筑摩郡本城村(現・筑北村)尋常小学校を卒業した後、4月に坂北村(同)と本城村との組合立高等小学校に入学したが、一家の松本移住に伴って7月に松本町立松本尋常高等小学校男子部(開智学校)高等科1年に入学した。1901年、母方の従兄の薦めにより松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)の入学試験を受験し、合格者中第4位の成績で及第した。松本中学校在学中に学生団体であった披雲会と自治団体であった尚志社に入り、活動した。1904年、棚橋は松本中学校4年に進級したが、2月から続いていた日露戦争に刺激されて、海軍兵学校への入学を決意した。この決意の背景には、父である宣章がつくった借金により学費納入が滞ることが多々あったことから、学費のかからない海軍兵学校を選択したということがあった。 松本中学校時代における棚橋小虎。中列左から2人目が棚橋。 しかし、10月に入って左足に激痛を感じ、診断の結果左脚骨髄炎を発病していた。当初、進級単位の問題と地元の医師からリウマチと診断されていたこともあってしばらくはそのままでいたが、病状への不安から1905年4月に松本中学校を一時退学をして、5月から9月にかけて東京大学医学部附属病院で3度に亘り手術を受けた。12月に帰郷、翌1906年1月から復学して、3月に松本中学校を卒業した。この卒業に際しては通常、一年の三分の一以上欠席であった生徒は卒業できないこととなっていたが、棚橋は校長の小林有也に直談判を行い、小林が棚橋を卒業させる気であることを直感的に受け取った。 松本中学校卒業後、一旦銀行に就職したが2ヶ月で退職し、9月に左脚骨髄炎の治癒のために再度上京したが、東大病院の医師に内臓の不調の可能性を言われ、内科で診療を受けたところ左肺尖カタルと診断された。こうした健康不安もあって急に宗教に関心を持ち、松本メソジスト教会に通うようになった。1907年洗礼を受けたが、深く感銘を受けていた牧師の橋本睦之と伝道師の平林広人が松本メソジスト教会を離任することとなったことから、以後距離をおくようになった。2月に入ると東筑摩郡和田尋常高等小学校の校長であった岡村千馬太から和田小学校で代用教員の誘いがきた。当初、棚橋は健康不安に加えて、中等教員検定試験の受験を企図していたことからその誘いを留保していたものの、検定試験及第までの生活費や書籍代への不安から、9月に和田村へ赴き代用教員となった。尚、この代用教員時代の教え子たちによって、後年「保進会」という同窓会が組織されている。 健康不安は続いていたものの、1909年に入ると左脚骨髄炎の病源の大部分であるとされた足の骨片を除去することができた関係で、やや回復に向かい、それにつれて官吏を志し、帝大法科への進学を考えるようになった。帝大への進学に向け、まず翌年7月に行われる高等学校入学試験を受験することとした。当初、第一高等学校への進学を考えていたが、合格に不安があったことに加え、関西の生活に好奇心を抱いていたこと、尚志社の後輩である細田忠四郎が京都府立医学専門学校に在学中の関係があり好都合であったことから第三高等学校を選択することとした。受験準備の間、父・宣章の死に直面したが、1910年7月に第三高等学校を受験し、合格を果たした。棚橋は、合格の報せに接するまでの間、左脚骨髄炎が再発して東大病院で再度手術を受けることとなった。一旦退院できたものの、9月入浴時に傷口から丹毒に感染し再入院することとなった。しかし、すぐに退院して10月に松本を離れ、京都へと向かうこととなった。
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