少年文学宣言
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神宮によると、童話会時代は前述の未明・広介・譲治の影響で牧歌的な作品が広まっていたが、神宮の一年下で古田と鳥越が入会後、社会や政治と結びつけたやや硬い雰囲気に急変、「未明なんか駄目だ」という空気になったという。 1953年に古田と鳥越が「少年文学の旗の下に!」というタイトルコピーで「少年文学宣言」を発表。神宮と山中もこれに強く共鳴し、この四人は童話会・派生団体・プロ作家などにおいて、坪田とはまた別に、特異性のある関係を保っていく事になる(以下便宜上、鳥越たち四人と略す)。 こうしてこの世代の会員は、一世代前のびわの実会とある種の距離を隔つようになったが、砂田のように両派にまたがって活動した者もいる。さらに時代がたつと、児童文学者協会が第三派に加わった。鳥越と神宮はその後早大で教鞭をとり、会員の中には童話会OBと知らずに授業を受けていた者もいた。 だが鳥越たち四人が上級生になると、今度は下級生たちが少年文学宣言に否定感を示すようになり、千葉は1965年、三年の時に早稲田祭で未明・広介・譲治を再検証するシンポジウムを開催する。鳥越たち四人と下級生たちは思想的に決別したが、プライベートでの交流は続いた。 後述の早稲田文芸会に改名後、早稲田文芸会宣言という文書が作られた事がある。これはネーミングからわかる通り、少年文学宣言のパロディである。
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