小堀遠州流とは? わかりやすく解説

遠州流

(小堀遠州流 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/30 22:33 UTC 版)

遠州流(えんしゅうりゅう)は、江戸時代初期の大名であり茶人であった小堀遠州(こぼり えんしゅう/小堀政一 1579年~1647年)を流祖とし、遠州の茶道を継承する武家茶道の一派である。

小堀遠州の茶道

小堀遠州は、江戸幕府の茶道指南役を務め、徳川家康秀忠家光の三代将軍に仕えながら、将軍家や諸大名に茶の湯を広めた。遠州の茶風は、千利休の「侘び」の精神に、王朝文化の華やかさや雅(みやび)を融合させたものであり、後の時代に「綺麗寂び」と呼ばれる[1]

また、「茶道」は千利休古田織部の時代には「茶の湯」と呼ばれる大名や町人の嗜みであったが、小堀遠州が書捨の文の中で「茶の道」と呼称してその精神性を説き、現代の芸能である「茶道」に繋がる転換を図った[2]

加えて、小堀遠州は茶道だけでなく、作事奉行として桂離宮仙洞御所二条城名古屋城などの建築・造園にも携わり、日本の美意識の形成に大きな影響を与えた。さらに、茶道具の鑑定や高取・膳所・丹波・信楽・伊賀・志戸呂などの国焼の茶陶の指導にも尽力し、茶の湯の発展に大きく寄与した。

この美意識を受け継ぎながら、遠州流は武家の作法や礼法を重んじる茶道として発展し、現代に至るまで「綺麗さび」の精神を伝えており、「遠州茶道宗家」と「小堀遠州流」を中心に、国内外で茶道の普及・文化交流を行い、伝統文化の継承と発展に努めている。

小堀遠州の門人

徳川家光小堀正行、小堀政尹、沢庵和尚江月和尚瀧本坊昭乗、古筆了雪(古筆鑑定家。古筆了佐の五男)[3]狩野守信佐川田昌俊黒田正玄、山田大有、大森秀祐(漸齋)、神尾元勝 (出典:『読史備要』[4]

遠州流の本家

現在、「遠州茶道宗家」と「小堀遠州流」が小堀遠州以来の正当な茶を受け継ぐと主張しているが、家系図上の小堀家本家は小室藩6代(遠州茶道宗家7代)小堀政方伏見騒動を引き起こして改易され、相続が認められなかった時点で消滅しており、客観的に見た本家は存在しない[5]

遠州茶道宗家は、上記の伏見騒動から40年後、小堀遠州の異母弟小堀正春の子孫である小堀仁右衛門家出身の小堀宗中が御家人として再興しているため、遠州直系の子孫ではないが、歴代の多くの作品を残すほか、明治時代以降に遠州流を広めてきた。

小堀遠州流は遠州の玄孫である7世小堀政報、8世政展が家督を相続して以降、遠州の直系で現在まで続いており、伏見騒動以降は小堀氏の惣領として活動するが、系図上は小堀遠州の同母弟小堀正行の子孫であり、本家ではない。

武家茶道においては、江戸時代は千家系のように家元を公称する例は少なく、小堀氏においても小堀大膳家(現:遠州茶道宗家)、小堀治左衛門家(現:小堀遠州流家元)、小堀権十郎家、小堀十左衛門家、小堀土佐守家、小堀仁右衛門家などの歴代当主が遠州流の茶道を受け継いできた。 明治維新後にそれぞれ家元として名乗り[6]、現在まで伝えてきた。

次の章では、各流派の見解に基づく内容を記載する。

各流派 

1.遠州茶道宗家(えんしゅうさどうそうけ)

初代・小堀遠州以来、歴代の当主が茶道に造詣が深く、遠州の茶道を正統に受け継ぎながら、その美意識と茶法を現代まで伝承している。武家茶道としての歴史的背景から、江戸時代には「家元」という制度を持たなかったが、明治維新以降、十世・小堀宗有(そうゆう)の時代から正式に「家元」を名乗るようになった。現在の家元は、十三世・小堀宗実(こぼり そうじつ)宗匠であり、日本国内および海外で茶道の普及・指導を行っている。

遠州流茶道の家元、遠州茶道宗家は東京都新宿区にあり、遠州流茶道の組織としては、同門組織である「遠州流茶道連盟」、小堀遠州を顕彰する「公益財団法人小堀遠州顕彰会」、そして職方の組織である「向栄会」が存在している。

2.小堀遠州流(こぼりえんしゅうりゅう)

初代小堀遠州から同母弟小堀正行に伝わり、その後も歴代当主に正統に受け継がれた流派である[7]。「槍の治左衛門」と呼ばれた2世正行のように武家として活躍しながらも、多賀大社の造営奉行を努めた3世小堀正十や、特別名勝栗林公園の造園を担ったとされる4世小堀政孝など、茶道に加え、小堀家らしく建築・作事を得意としてきた[8]

茶道においても、歴代当主が遠州流の茶を正統に受け継ぎ、遠州直系が当主となってからは小堀家惣領としても活躍した[9]。 12世小堀政休が明治維新後に「家元」として名乗りを上げ、平瀬露香を世話役として遠州流茶道保存会を立ち上げ、東京と関西を中心に、時には山口・萩に出向いて遠州流の普及に務めた[10][11]

その後、一時「遠州茶道宗家」を家元とする遠州流茶道の別家家元とされた時期もあったが、昭和27年(1952年)2月より小堀遠州流家元機関誌を発行するなど独自に活動を続け、昭和37年(1962年)に改めて「遠州茶道宗家」と異なる遠州流系の家元であることを宣言した[12]

家元は東京都練馬区にあり、同門組織は松籟会という[13]。は武家茶道を代表する四派の1つとして、柳営茶会において毎年釜を掛けている[14]など、将軍指南役を務めた遠州流を正統に現代まで伝えている。

また、松殿山荘流(しょうでんさんそうりゅう)は、小堀遠州流第12世小堀宗舟の弟子である高谷宗範が創始し、現在は公益財団法人松殿山荘流茶道会として活動している[15]。この他、京都には小堀遠州流から派生した組織として、大徳寺龍光院及び大慈院に伝わる「遠州流 遠州会」があり、祇園祭の宵山では菊水鉾の会所にて釜を掛けている。

3. 大和遠州流

小堀遠州の三男・小堀政尹の流れを汲み、高弟たちによって受け継がれた流派で、現在は北海道に本部を置き活動している。

4. 玉川遠州流

小堀遠州の門人、大森漸斎を初代とする流派で、石川丈山煎茶を学んだことから、抹茶道と煎茶道の両方が伝わる 。

遠州茶道宗家

1. 遠州茶道宗家の歴史

遠州没後、その次男である二世小堀宗慶(1620-1674)は、茶道の正統を受け継ぎ、遠州の遺品を整理・文書化した。書に優れ、松花堂昭乗に学び、後水尾天皇東福門院の御前で書を披露するなど、能書家としても名を馳せた。遠州の遺品である「立花丸壷茶入」「朝陽図」などを将軍に献上し、さらに遠州が所持していた茶道具358点を整理し、前田家や酒井家などの大名に分与した。また、1653年には父の菩提を弔うため、近江小室に近江孤篷庵を建立した。三世小堀宗実:(1649-1696)は、「小堀家器財帳」を作成し、遠州以来の茶道具を体系的に整理した。書は藤田乗因に学び、茶道は父宗慶より学び、諸大名との交流を深め、茶会を催した。四世小堀宗瑞(1685-1713)は、幼少で家督を継ぎ、聡明であったため将軍の御前で「論語」の講釈をする機会を3度得たが、29歳の若さで早世した。五世小堀宗香(1690-1760)は、9歳で将軍徳川綱吉小姓となり、兄宗瑞の死後、家督を継ぐ。将軍徳川家継吉宗家重:の3代に仕え、伏見奉行、さらに若年寄を2度務めるなど、幕府の要職を歴任した。茶道においても厳格で、遠州以来の正統を忠実に守った。六世小堀宗延(1734-1806)は、五世宗香の養嗣子として家督を継ぐが、後に五世宗香に実子が誕生したため家督を譲り、小室に退いた。茶道に精進し、遠州流の正統を守ったが、現存する作品は少ない。七世小堀宗友(1742-1803)は伏見奉行を務めたが、伏見騒動により改易され、小田原に永預けとなった。八世小堀宗中(1786-1868)は、天明6年に生まれ、40年間の浪々の身を経て、御切米300俵にて御家人として取立てられ、「遠州蔵帳」の諸道具の大半を取り戻した。茶法は父政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜に学び、多くの門弟を育て、尾張徳川家の茶器鑑定などにも携わった。九世小堀宗本(1813-1864)は、茶法・書を父宗中に学び、遠州の筆跡を会得し、「以宗甫筆宗本書之」と記された作品は、遠州直筆と見紛うほどの完成度を誇る。十世小堀宗有(1858-1910)は、明治維新後の茶道衰退期にあっては遠州流を一般公開し、その普及に尽力した。第2回観古美術会では、小堀家伝来の器財を展示し、親王殿下や妃殿下に茶を供し、遠州流の名声を確立した。十一世小堀宗明(1888-1963)は東京美術学校に学び、彫刻・書・日本画を習得した。22歳で家督を継ぎ、広徳寺福冨以清和尚より「其心」の庵号を授かり、「一貫子」と号した。大正・昭和の茶道界において、益田鈍翁などの著名な茶人と交流し、東京における茶道の発展に貢献した。十二世小堀宗慶(1923-2011)は、東京美術学校在学中に学徒出陣で満州に従軍し、終戦後はシベリアに抑留され、4年間の苦難を経て復員した。その後、遠州茶道宗家を継ぎ、「国民皆茶」を掲げ、建築・造園・芸術・工芸など幅広い分野で活動した。特に名物裂の研究や茶花の探求において卓越した知見を持ち、また藤原定家の書風を継承する「定家書風」の第一人者としても知られた。平成4年には文化功労に対して都知事表彰を受け、平成5年には勲四等旭日小綬章を受章した。十三世小堀宗実(1956-)は、学習院大学卒業後、桂徳禅院で禅修行を積み、大徳寺管長より「不傳庵」「宗実」の号を授かる。平成13年に家元を継承し、「茶の湯を通して心を豊かに」という理念のもと、伝統文化の普及と精神文化の向上に努めている。特に海外での文化交流活動を積極的に行い、青少年向け茶道教育「遠州流茶道こども塾」を開講するなど、次世代への茶道の伝承に力を注いでいる。

2. 歴代

1世:小堀遠州(えんしゅう)(1579-1647)

2世:小堀宗慶(そうけい)(1620-1674)

遠州の長男。書に秀で、後水尾天皇の前で揮毫。遠州の遺物整理や茶道の継承に尽力。

3世:小堀宗実(そうじつ)(1649-1696)

茶器整理を行い、「遠州蔵帳」の基礎を作る。書や茶道に精通し、諸大名と交流。

4世:小堀宗瑞(そうずい)(1685-1713)

10歳で家督を継ぐ。将軍の御前で「論語」を講釈するなど才能を発揮するも、29歳で早逝。

5世:小堀宗香(そうこう)(1690-1760)

若年寄として幕閣で活躍し、遠州流茶道を厳格に継承。

6世:小堀宗延(そうえん)(1734-1806)

遠州の弟・小堀正春の系統である仁右衛門家から養子入り(母は五世宗香の娘)。遠州流茶道の精進に努める。

7世:小堀宗友(そうゆう)(1742-1803)

「喫茶式」や「数寄記録」などの伝書を編纂し、遠州流茶道の体系を整理するなど、茶道の継承に大きく貢献した。

8世:小堀宗中(そうちゅう)(1786-1867)

長く浪々の身であったが、幕臣として復帰し、小堀本家の名跡を再興。

9世:小堀宗本(そうほん)(1813-1864)

書・絵画・茶道に精通し、遠州の筆跡を再現できるほどの技量を持つ。

10世:小堀宗有(そうゆう)(1858-1909)

遠州流茶道の一般公開を決意し、普及に努める。

11世:小堀宗明(そうめい)(1888-1963)

東京で茶道界の重鎮として活躍し、流儀の発展に尽力。

12世:小堀宗慶(そうけい)(1923-2011)

「国民皆茶」を掲げ、茶道の普及と研究に努める。名物裂や茶花の研究にも貢献。

13世:小堀宗実(そうじつ)(1956-)

現家元。国内外で茶道の普及に尽力し、青少年向け「遠州流茶道こども塾」を展開。

小堀遠州流

1. 特徴

将軍の茶道指南役を務めた小堀遠州の武家茶の系譜を受け継ぎ、綺麗寂びの美意識を反映した遠州好と呼ばれる茶道具が置き合わせされた茶室に入ると、寛永文化の洗練された美しさを感じることが出来るとされる[16]

小堀遠州が拠点としていた伏見奉行屋敷にあった茶室「転合庵」の上段の間付三畳台目席[17]に常什の「転合庵棚」は、質素でありながらも遠州の美意識や遊び心を反映しており、加えて台目席に水指棚を用いるという革新性も兼ね備えており、小堀遠州流の茶会では写しのものをしばしば用いる。

袱紗を右につけ、茶碗に茶筅を仰向けで仕込み、茶杓を伏せてのせるところは古田織部以降の武家茶道に共通する伝統であるが、加えて弓道や剣術にも共通する「爪揃え」と呼ばれる道具の持ち方や「指建礼」など遠州以来の武家の作法が多く取り入れられているのが特徴である[18]

道具の扱いについては、特に茶筅置き茶碗の扱い[19]や五段柄杓の法[20]など、小堀遠州や歴代の古書に見える伝統的な点前を現代に受け継いでいる。

2. 歴代家元

1世:小堀遠州(えんしゅう)(1579-1647)

2世:小堀正行(まさつら)(1583-1615) 遠州の同母弟で、宗虎と号した。「槍の治左衛門」と称される武勇の持ち主であり、父小堀正次に遠州と共に連れられて茶の湯を学び、遠州の茶を身近で吸収した。知行は3,000石となり幕末まで続いた。

3世:小堀正十(まさとお)(1601-1644) 正行の嫡男で、宗貞と号した。茶道のみならず建築などにも才能を発揮し、多賀大社の造営奉行を務めた[21]

4世:小堀政孝(まさたか)(1626-1684) 正十の嫡男で、宗舟と号した。諸大名と交流して茶道を嗜み、遠州形の茶杓を残した他、作事にも優れ、栗林公園を遠州流の庭園として作り上げた[22]

5世:小堀政利(まさとし)(1629-1694) 正十の次男で、宗功と号した。茶道のみならず普請などに優れた[23]

6世:小堀政郷(まささと)(1672-1724) 政利の嫡男で、宗安と号した。父政利から茶道を学び、よく遠州流の継承に努めた[24]

7世:小堀政報(まさつぐ)(1717-1733) 政峯の次男(長男は早世)で、遠州の玄孫にあたり、宗忠と号したが17歳で没する[25]

8世:小堀政展(まさのぶ)(1722-1764) 従五位下山城守政峯の五男(長男、三男、四男は早世)で、遠州の玄孫にあたり、宗信と号した。遠州茶道宗家の小堀政方の兄にあたる。父政峯からの教えを受け、家中に本家の茶道を広めた[26]

9世:小堀政弘(まさひろ)(1746-1788) 従五位下河内守政展の長男で、宗道と号した。伏見騒動による本家の改易後は本家の政方赦免の嘆願を行うとともに、遠州以来の名物茶道具の流出阻止に努めた[27]

10世:小堀政徳(まさのり)(1767-1819) 政弘の長男で、宗勇と号した。小堀氏の惣領として、幕府の「寛政重修諸家譜」の家譜調査に小堀家系譜を呈譜して遠州以来の小堀家の事績を後世に残したほか、遠州茶道宗家8世小堀宗中の御家人への登用を幕府に嘆願した[28]

小堀政純(まさずみ)(1799-1851) 政徳の長男で、宗圓と号した。病身のため惣領を引いたため、歴代家元には数えていないが茶をよくするとももに、小堀仁右衛門家出身の小堀正優を江戸屋敷に住まわせるとともに御切米300石にて御家人への登用を果たし、遠州蔵帳記載の多くの茶道具を贈った[29]

11世:小堀政恒(まさつね)(1813-1845) 政純の長男で、宗仁と号した。本家改易後の遠州流の正統な継承に努めたが若くして没した。

12世:小堀政休(まさやす)(1840-1901) 政純の次男で、宗舟と号した。将軍徳川家慶家定家茂慶喜の4代に仕え、黒船来航時の国書受け取り(1853年)、坂下門外の変により蟄居した小堀宗中の赦免(1862年)、老中阿部正外に付き従って上洛(1863年)、使番としての長州征討従軍(1864年)など旗本筆頭としての働きを見せた。

明治維新後も徳川家に忠義を尽くし、16代徳川家達駿府入府に付き従って、徳川家の再興に尽力した。明治6年に東京に戻ってからは、徳川家の依頼で荒廃していた上野東照宮の復興を手がけるとともに、下谷練塀町の屋敷で遠州流を正統に受け継ぐ家元として、一般への茶道教授を開始した。

また、茶道普及のために関西に赴き、明治28年には、京都・大徳寺孤篷庵にて遠州没後250年祭を催した。弟子に茶道家の小文法師や高谷宗範などがいたほか、近代数寄者の代表格である安田善次郎や平瀬露香などと茶会に招待し合うなどの交流を持つとともに、遠州流茶道保存会を立ち上げ、遠州の茶の湯を正当に継承する茶人として活躍した[30]

13世:小堀政孝(まさたか)(1880-1922) 政休の次男(長男は夭折)で、宗博と号した。父に従い京都の伏見大徳寺龍光院孤篷庵などで教場を開き、正統な遠州流の普及に努めた。

14世:小堀進(すすむ)(1886-1953) 政休の三男で、宗忠と号した。高円宮妃に茶道を教授した他、作庭にも優れ各地の庭園を手がけた。また、定家様の書は当代随一で、華道においては遠州の古書を元に剣山を開発したり、盆石においても遠州流を興すなど、総合芸術家として名を馳せた[31]

15世:小堀文雄(ふみお)(1912-1999) の長男で、宗通と号した。家元後援会松籟会を立ち上げ、機関紙松籟を創刊。柳営茶会において、将軍の茶道指南役を務めた遠州の茶を正しく伝え、国内外においても多数の茶会を催し茶道の発展に努めた。また、遠州以来の古書の整理や公開、出版を通して遠州流の伝統を世に広めた[32]

16世:小堀健作(けんさく)(1945-) 当代家元で、宗圓と号する。柳営茶会での掛釜など小堀遠州の茶道を正しく受け継ぎつつ、遠州の茶を広く普及させるため、国内外で釜を掛けるなどの活動を行う。

脚注

  1. ^ 小堀宗通著 小堀遠州の茶道(浪速社)
  2. ^ https://koborienshu-ryu.com/about/eg007.html
  3. ^ 古筆了雪筆書状”. Keio Object Hub. 慶應義塾ミュージアム・コモンズ. 2023年10月8日閲覧。
  4. ^ 東京大学史料編纂所 編『読史備要』講談社、1966年3月30日、1068頁。NDLJP:3007343/556 (要登録)
  5. ^ 寛政重修諸家譜巻ノ千二百四
  6. ^ 渡辺虹衣著 高谷宗範献茶録(大正15年)
  7. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  8. ^ https://koborienshu-ryu.com/about/ryuha.html
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千二十四
  10. ^ 松翁茶会記(安田保善社)
  11. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  12. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  13. ^ https://koborienshu-ryu.com/about/ryuha.html
  14. ^ https://ryuueikai.org/event/chakai/
  15. ^ 渡辺虹衣著 高谷宗範伝(昭和10年)
  16. ^ 松籟 随筆(小堀宗通著 浪速社)
  17. ^ 伏見転合庵の記 小堀宗忠著
  18. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  19. ^ 小堀政方筆 数寄記録
  20. ^ 小堀遠州置き合わせの留
  21. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  22. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  23. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  24. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  25. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  26. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  27. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  28. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  29. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  30. ^ 松翁茶会記(安田保善社)
  31. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  32. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)

参考文献

  • 小堀宗通『小堀遠州の茶道』浪速社
  • 小堀宗通『松籟随筆 茶道編』村松書館
  • 小堀宗慶「遠州流」『日本の茶家』河原書店
  • 小堀宗通「小堀遠州流」『日本の茶家』河原書店
  • 戸川宗積『日本の茶道の流れ』大絖書房
  • 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社
  • 藤岡屋日記

関連項目

外部リンク


小堀遠州流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 21:16 UTC 版)

遠州流」の記事における「小堀遠州流」の解説

小堀遠州流を伝え分家遠州家督を継ぐ時に小堀正行分知したのが始まりで、6代政郷までは遠州傍系であったが、7代政報・8代政展は本家から迎えた養子であり、以来血脈としては遠州直系となる。 小堀遠州流歴代名号庵号生没年備考小堀正一 宗甫 孤篷庵 1579年-1647年2月6日小堀正行 宗虎 1583年-1615年8月14日 正一の弟 三 小堀正十 宗貞 1601年-1644年4月4日 四 小堀政孝 宗1626年-1684年8月19日小堀政利 宗功 1628年-1694年6月29日 4代政利の弟 六 小堀政郷 宗安 1672年-1724年9月13日小堀政報 宗忠 1717年-1733年10月6日 本家5世正峯の次男小堀政展 宗信 1721年-1764年5月26日 本家5世正峯の五男 九 小堀政弘 宗道 1746年-1788年8月10日小堀政徳 宗勇 1761年-1819年5月6日 小堀純 宗1793年-1851年4月4日 1822年総領を除かる 十一 小堀政恒 宗仁 1813年-1845年7月22日 十二 小堀政休 宗舟 為楽庵 1840年-1901年8月31日 11代政恒の弟 十三 小堀政孝 宗博 深入庵 1880年-1922年10月31日 十四 小堀進 宗忠 静楽1886年-1953年6月21日 13代政孝の弟 十五 小堀文雄通 法楽庵 1912年-1999年11月20日 十六 小堀健作 宗圓 1946年1月1日- 当代

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